蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』 2/3 jeudi 16 juin 2016
プラトンの著作はソクラテスと第三者の対話を再現したものがほとんどです。そのなかのあるものは、対話が成就しますが、あるものは成就せず決裂してしまふものもあります。その決裂の集合した結果が『ソクラテスの弁明』へとなつてゆきます。

決裂の原因は、対話者が知つてゐるといふ思ひ込みに執着、固守、頑迷になつた結果です。けれども対話者が思ひ込みを認め、そこからソクラテスと共に探求をはじめる対話もあります。しかしさうでなく、あくまでも自分の思ひ込みにしがみつき、対話が発展せず、決裂してしまふものもあります。

さういふことを思ふと、対話者の資質は、問ふ人の資質以上に大切だといふことがわかります。

20160616
   < ここにある技法も・・・ >

高階秀爾のこの本が生まれた背景には、ソクラテスに相当するやうな優れた欧州の研究者の存在を窺ひ知ることができます。同じ基盤に立つ者同士だと、自明として見過ごしてしまひ、疑問が疑問とならず、また疑問の解明の糸口にもならず、見過ごされ、放置され、そのままで終はつてしまふこともあります。

文化の基盤が異なる人の問ひをもとにして、この本は誕生したといつてもいいでせう。この本だけでなく『西洋の眼 日本の眼』、『増補 日本美術を見る眼』は、高階秀爾の周囲にゐる西欧の研究者からの問ひに触発されて生まれた著作でせう。ソクラテスーー欧州の研究者ーーがゐて、対話者ーー高階秀爾ーーがゐる。

この対話者・高階秀爾の知の守備範囲は、これら三冊の著作に眼を通すだけでも、広範で深遠だと知ることができます。さういふところが基盤になつて文章が書かれるのですから、ひとつの出来事でも多面的、多視点的かつ多次元的で、ニュアンスに富んだ事柄として浮かび上がらせます。

20160616
   < ここにある装飾性も・・・ >

言ひ切りの断定的な物言ひは、わかりやすいものです。しかし重要な部分が抜け落ちてしまふ危険と背中合はせです。ソクラテス、つまり西欧の研究者はさういふ返答を許してくれません。かりに対話者が断定し、決めつ、言ひ切つたとしても、これら研究者は、それで満足してくれないでせう。ソクラテスのごとく、さらなる質問を、とうぜん、発するでせう。

高階秀爾のこの本は、少なくともこの自分には、感動を与へてくれます。その原因は、対話が成立し豊穣な実りをもたらしてゐる、と感じられるからです。対話者・高階秀爾の知は、日本の学校教育が教へるやうな知識ではありません。自ら調べ上げた裏打ちのある知識です。そこから高階秀爾の多面性、多視点性、多次元性が生まれるのです。

身近にあり、自明としてやり過ごしてゐたものが、欧州の研究者によつて疑問として提示され、その疑問に応答し、自明だつたものが疑問となり、その疑問が明確になつてゆく。この本を読んでゐると、まさにさういふ刺激的な知の解明の現場に立ち会ふやうな心弾む気持ちになります。

20160616
   < さうしてかういふ撮り方にも・・・ >

それと同時に、知ることによつて、自分を取り囲んでゐる文化といふ環境を知ることにつながります。自分の撮り貯めた写真を見ながら、なにも考へずに撮つた写真に、意識しないまま、日本文化的な視点が入り込んでゐるのを発見したりします。

自分を取り囲むこの国の文化、この国に生まれるといふことは、この国の文化に育てられるといふこと。感受性ひとつを例にしても、この国の文化の影響を受けてゐるのがわかります。この国の文化を知る、それは、とりもなほさず、自分を知ることになるでせう。






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# 高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』 1/3 lundi 13 juin 2016
この本を読んで、まず最初に感じることは、わたしたちは義務教育過程で一体なにを学ばされてきたのか、といふ疑問です。育つ過程や生涯作用し続ける環境、そのもつとも重要な部分であるはずの出生ーー誕生は偶然の産物で、時と場所が異なれば祖国も変はつてくるでせうがーーした祖国の「文化」についてなにも知らされてこなかつた、といふ考へが過るのが、この国で義務教育を受けて、育てられてきたわたしたち多くの日本人ではないでせうか。

さういふ意味では、みすず書房が毎年だしてゐる新年合併号の「読書アンケート」で見られる『日本人にとって美しさとは何か』の評論ーー日本のことが学べるーーは当たつてゐるでせう。しかし、それがこの著作の最重要部分か、と問へば、さうとはいへない、といふ応へも帰つてくるでせう。

20160613

育つてきた環境、育まれてきた環境をなにも知らず、環境がもたらす影響を知らないまま、この世に生き、この世を去つてゆくとはどういふことを意味するのでせうか。環境が育んできた無意識な自分の思考や行動原理をなにも知らない、とはなにを意味するのでせうか。日々、意識することもなく、当然として見たり聞いたり、感じたり考へたり、一喜一憂する思考や行動の原理が生まれおちた自分の国の文化といふ環境に、深層で依存してゐるとすれば、その環境を知らずに生きるわたしたちの生の意味とはなんなのでせうか。

環境ーーここでは文化と言葉を変更しても差し支へないでせうーーを知つて肯定的に納得できるのか。それともなにも知らずに今日まで過ごしてきたことを口惜しがるのか、はたまた二つの感想が入り混じり身悶えするのか、それによつてこの本の読後感も変はつてくるではないか、と思つたりしてゐます。

20160613

この本の「あとがき」やこの本に掲載されてゐる「初出一覧」をみると、この著作が成立した過程を窺ひ知ることができます。個人的には、この本では「東と西の出会い」がもつとも重要な文章だと考へてゐます。その最重要だと考へる文章の初出は一九九一年、国際美術史学会東京会議で、基調講演となつたもので、英語でなされたことがわかります。

一九九一年の時点では、「東と西の出会い」は英語で、著書に目をとおすと「東と西の出会い」はフランス語からの訳出で、フランス語でも発表されてゐることがわかります。フランス語での発表に着目すると「ロボットと日本人」も同様です。

20160613

この本の「まえがき」で、著者は、「複眼の視点による日本文化論」だと断つてゐます。この「複眼の視点」ーー鏡のなかの(自分の)姿は、自分であると同時に、外からの、他者の視点からの姿である。美術(建築、絵画、工芸)や文学(物語、詩歌、演劇)などの芸術表現も、異文化(例えば西欧文化)の視点を受け入れ、それと対比することによって、いっそうよくその特質をあきらかにすることができるであろうーーといふ考へかたが、類似する他の本とこの本を峻別し、「優れた本」たらしめてゐる、と考へられます。




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# 卵を孵す鳩 vendredi 10 juin 2016
猫の額ほどの庭に植ゑられた木の若枝が伸びて、通りに飛び出した部分だけを刈り込んでゐたら予想もしなかつた意外な発見をしました。

20160610

鳩の巣です。鳩が巣を作り、そこで卵を孵化してゐたのです。気づかず巣の近くを刈り込んでも、親鳩は微動だにしません。

20160610

ここだと、カラスにも見つからないのでせう。猫の襲撃にも遭ふこともなく、大丈夫さうです。近距離からシャッターを切つて、その音は鳩に聞こえてゐるはずですが、鳩は微動だにもせず、こちらを見据へてゐます。

生命を守るからでせう、鳩でも、かうなると、不思議にある種の崇高さを感じさせます。



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# 筆舌に尽くしがたい偶然の再会 dimanche 5 juin 2016
■偶然の再会
なにに再会したかといへば言葉です。みすず書房が二〇一五年十一月に出版したアレックス・ダンチェフといふ人が書いた『セザンヌ』のプロローグを読んで、感心し、もう一度読み直さうと思つて、最初に戻らうとしたら、ページのはじめにある献辞に気がつきました。

この献辞ーー人は自分のなかにすでにあるものだけをこの世で知覚する。しかし、そのあるものを知覚するには、この世界が必要だ。とはいえ、そのためには、行動と苦しみが絶対必要だーーこれは、本を読もふと決心した数十年前の若いときに出会つたあの言葉を思ひ出させました。

20160605

若い当時は、もつともらしく本の知識をひけらかす人が、鼻持ちならず、嫌で、嫌で仕方がありませんでした。当時は、本を読む意義をどこにも見出せず、そこから本の知識をひけらかす人を腹で軽蔑し、敬遠して、遠ざけてゐました。

■自分はなにもの?
しかし、当時のある時、偶然、手にして読んだ本につぎのやうな文章がありました。

「影響は類似によつて作用する。それは鏡にたとへられます。我々が既にはつきりさうなつてゐる我々の姿を見せるのではなく、我々が潜在的になつてゐる姿を見せる鏡です。アンリ・ド・レニエは『汝が未だ成り畢(おほ)せぬかの内なる同胞(はらから)』と言つてゐます。」といふ文章です。

冒頭の「影響」を「感動」に置き換へて、自分のなかにあるまだ形をなさないものが、明確な形となつたものに出会ひ、それに触発されて、人は感動するのだ、と解釈し、そのために自分は本を読むのだ、と決心したのが、本を読む始まりでした。

20160605

紆余曲折はあつたにしても、感動するために、今日まで本を読んできました。さうして、再度また、この時期、この言葉に出会つたのです。それも個人的に特別な画家『セザンヌ』について書かれた本を介して、ホーフマンスタールのこの言葉に邂逅したのです。これには筆舌に尽くしがたい感動を感じてゐます。


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# 体感で知つてゐる。だから見る視点も変はつてくる。しかし・・・ mercredi 4 mai 2016
駅伝やハーフマラソンやフルマラソンの実況中継映像の話。

川内優輝選手の登場で市民ランナーの様子が、単に参加者が増えたといふだけではなく、記録的にも変はつてきてゐるのがわかります。と同時に、映像観戦する場合の中継映像の見方も変はつてきてゐるのではないでせうか。

従来のやうに、参加選手の顔を大写しするだけでは、参加経験のある視聴者は満足できないでせう。コースの起伏やコースの見晴らしを撮すこと、これからは、これらも重要な要素になつてくるのではないでせうか。

起伏や見晴らしを視聴者に伝へるのも、屋外長距離競技撮影の役割ではないでせうか。たとへ同じ距離であつても、コースの起伏、見晴らしによつて、その意味が変はつてきます。

昨年からはじまつたわが町の国際マラソン(大きな大会への選考大会のひとつになる)、起伏の多さでは難コースやうです。その起伏の多い難しいコースをどれだけの時間で、どのやうに走つたかを考慮しないと、大きな大会への参加を目指す選手は、参加を控へるやうになるのではといふ、杞憂にすぎないかもしれませんが、やはり心配になります。



この映像の五分前後やガードレールをくぐるアップダウンの映像は撮影に成功してゐるでせう。この映像は偶然の産物のやうですが、意識的な中継ができるやうになれば、実況撮影の精度もよくなるでせうし、それを見る視聴者も、アップダウンを走る難しさを、わづかですが、追体験できるやうになるのではないでせうか。

市民ランナーがこれだけ増えた現在、見ながら、走りを追体験する視聴者もゐます。だからこそ、実況中継の映像もここまで精度を求められるのは確実です。





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# ジョン・ルイスとミリヤナ・ルイスのゴールドベルグ変奏曲 mercredi 30 mars 2016
詞華集を、わが愛読書にと考へて、手元にある詞華集を数冊読み比べてみて、いまの自分の能力と好みにあつたものを一冊選びだしました。

詞華集のいいところは、その気になれば、いつでもどこでも開いて読むことができること、それに用ができても、随意に、中斷できるところです。特に日本の古典詩歌といへば和歌か短歌です。だから、隙間時間ができたとき読むのに最適です。まさに枕頭の書たる条件を満たしてゐます。

20160330

かうして小学館の日本古典詞華集を読み始めました。いまは春、この詞華集も春からはじまる構成になつてゐます。まさにスタートの季節のいまに重なります。いまその春の部を、いつもより一時間ほど早起きして、繰り返し、繰り返し読んでゐるところです。


読んでゐたら、詞華集から、そのむかし栞にして使つてゐたコンサートのチケットが出てきました。記憶ではジョン・ルイスがジャズバッハの第二弾として出したCDの発売記念コンサートだつたと思ひます。

20160330

リスニング・ルームはいまはもつぱら車中です。車中の音楽再生もカセットテープからMD、CD、SDメモリとなり、いまはSDメモリに好きな曲をいれて、これで再生して楽しんでゐます。

ジョン・ルイスのCD四枚組クラビーア協奏曲集と夫妻のCD二枚組チェス・ゲーム(原題 ゴールドベルク変奏曲)はいまでも自分のスタンダード曲として、このSDメモリにはいつてゐます。

20160330

たまに車に同乗する人が、かういふ曲をきいてゐて眠くならないかと心配してくれますが、自分にとつては、こちらの方が精神的に安定して、運転できます。

逆に激しいリズムの曲だと、それにあはせて、自然に、運転が乱暴になつたり、スピードを出し過ぎたり、と関心できない傾向になります。

ジョン・ルイスのバッハ演奏をきくと、何十年たつても、必ずといつていいほど、サントリーホールでのミリヤナ・ルイスとジョン・ルイスの親密な愛撫しあふ音のあのステージを思ひ出します。


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# 翻訳できない擬態語「シーン」のこと mercedi 23 mars 2016
詞華集を読んでゐたら心敬( 1406 - 1475 )といふ人のつぎの句に出会ひました。

散花に音きくほどの深山かな

20160323

この句がいいのかどうか、自分にはわかりません。が、たまたま読んだ高階秀爾の『日本人にとって美しさとは何か』の日本語の擬態語「シーン」の記憶があつたからでせう、それがあつて、この句が身近に感じられました。

『日本人にとって美しさとは何か』の表紙カヴァーを外すと、本の日本語題名のほかに、英字の題名--- What is beauty in the Japanese art? --もでてきます。(これを書いたあと気がつきました。宣伝用の腰帯を取つたら、その下に、この英文が隠れてゐました。)

日本語題目だと、あまりにも漠然としてゐて、内容の見当がつきませんが、英字題名になると、具体的に内容を想像することができます。

最初は年を重ねると人は右旋回するやうになるのかしら、と危惧しながら読み始めましたが、さういふ危惧は、杞憂でしかなく、初めて知る刺激的で触発されるもの満載の内容でした。

20160323

絵画を理解するだけでなく、常日頃感知することのないまま、文化伝統のなかで生きてゐて、影響されてゐることが、簡潔に、過不足なく書かれた本といつていいと思ひます。

けふは翻訳できない「シーン」だけ。また機会があれば、この本のことを書きたいと思ひます。





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# いまも昔もコピペ、コピペ jeudi 3 mars 2016
コピペ
引用はつまりはコピーアンドペースト。岩波書店のPR誌『図書』一月号の目次を眺めてゐたら、「思索の遠近」といふ題が目にとまりました。高田博厚の著作の一冊『思索の遠近』を思ひ出し、その頁を開いてみました。副題は「アランのかたわらで」といふことで、少し興味がそそられました。

20160303

『思索の遠近』は、個人的には、これまでになかつた刺激を受けた読書体験だつたので、よく覚えてゐます。「いいな!」と思ふと恒例で、それから数年は高田博厚の本を読み続けました。高田博厚は彫刻家だといふことを知つたのは著作を通してで、出会ひは著作家としての高田博厚でした。

『思索の遠近』はさういふ思ひ出もあつたので、興味をもつて読み出したのですが、『人間的飛躍』『教育者アラン』を読んだ後だつたこともあつたのでせうが、読み出すや否や首を傾げてしまひました。

20160303

アランがいふ引用といふ観点からするとこの文章は納得できないものでした。それこそ「コピペ」です。我慢して、なんとか最後まで読みましたが、皮肉にも、最後も筑摩世界文学体系の一冊、高田博厚訳の『ジャン・クリストフ』のコピペでした。題名は高田博厚の『思索の遠近』で始まり、最後も高田博厚訳の『ジャン・クリストフ』で終はる。これで安つぽいオチがついたことになりませんか。

心性の歴史
『人間的飛躍』『教育者アラン』と充実した読書ができて餘韻に浸つてゐたのですが、この餘韻も台無しになつてしまひました。また『図書』の編集後記にあたる「こぼればなし」を見てゐても、首を傾げるやうなことが書いてあるのです。

これもまた皮肉なのでせうか、一月の新刊には、岩波現代文庫になる『マルク・ブロックを読む』が予告されてゐるのです。マルク・ブロックといへば、アナール学派、心性の歴史の創始者といはれる人です。この人は制度や数値をいかに詳細に調べ上げたとしてもといつてゐます。しかし、「こぼればなし」には、入学した人数と卒業した人数が問題にされてゐます。

20160303

どのような人たちが入学してきて、どのような授業がなされたのか、さういふことには一向に触れてゐません。この人数を調べ上げてきて、それを現在の感覚で見て、判断するこの見方は、アナール学派にとつては、まさにしてはならない歴史の見方です。にもかかはらず、さういふ見方をしてゐるのです。あげく「読書はセンス」だとまで断言するのです。とんでもない無責任な放言です。これでは若い読書人が増えないのは当然です。

センスなんて的外れでナンセンス
おかしいかな、センスのない人に限つて、センス、センスといつて、センスを問題にします。読書のセンスつてなんでせう。読書にセンスなど必要ないでせう。この自分にしてからして、読書のセンスなんてありません。読みたいと思はなければ、別に活字など読む必要はありません。必要を感じ、必然性を見出した人が読めばいいのです。読書をある種のバロメータにみたて、それで人を判断するからおかしくなるのです。

報道を見てもわかるでせう。プロと称しながら、信じられない、とんでもない読み方をして、無責任に報道をしてゐる例がいやといふほどたくさんあるではないですか。臆面もなくプロと称してこの程度で、そのうへ責任もとりません。福島原発避難記事のことです。組織もそれを許してゐるのです。世間の評価なんて信じられません。事後処理にしても無責任です。さういふことからもわかるやうに、なにがなんでも活字を追ふ必要などないのです。ニュースを知らなければ、といふのは売るための、企業を保持するための方便です。必要を感じなければ、活字など追ふ必要などないのです。

『キャンパスの生態誌』(潮木守一著)といふ本があります。これはアナール学派とは関係ありませんが、それでも明治時代の大学の授業の様子をうかがへるノートが写真入りで紹介されてゐます。試験問題のことも記されてゐます。これらを読むと明治時代の大学の様子を知ることができます。かういふ実態を知ると、関川夏央がセンスだといふ、入学者数と卒業者数の差の問題など気にする必要などないのがわかります。知つても実態は浮かび上がつてきません。

もつともらしく、「読書のセンス」などといつて関川夏央も無責任で、そのうへ酷です。センスなど不要なのです。大切なことは読書の必然性を見出すか否かです。読書に必然性を見出した人は本を読めばいいのです。さうでなかつたら本など読まなくても一向に問題にならないでせう。本は読まなければならない、恥ずかしい、知能が低くいと見られる、さう思ひ込むからおかしくなるのです。

20160303

トンチンカンなノイローゼ論
図書館で『ことばの見本帖』を借りて、関川夏央の文章を読みましたが、これほど的外れな読書論も珍しのではないでせうか。本を読みたいと思つても、これを読んだら、若い人は、ますます本を読まなくなつてしまふでせう。

関川夏央の文章は漱石のノイローゼをことさら強調してゐます。しかし、それだけで片付けられないでせう。梶井基次郎ではありませんが、いまでも田舎に行けばよそ者は注視されます。明治時代、廃藩置県が行はれ「藩」が「県」になつても、実態は藩のままだつたはずです。よそ者。よそ者の一挙手一投足は、すぐ知れ渡るでせう。一九〇一年生まれの梶井基次郎の時代でも、紀伊半島の寒村へ肺結核の養生に出かけたときの村人の喰い入るやうな視線のことを書いてゐますが、漱石が田舎へ行つた共通語も標準語もない、ラヂオも普及してゐない、ないないづくしの時代なら、それ以上でせう。

さういふことが抜け落ちて、「センス」論が持ち出されても「センス」にならないでせう。これでは心性の歴史家『マルク・ブロックを読む』の現代文庫化も意味をもたないでせう。出版社の人間そのものが『マルク・ブロックを読む』を一行も知らないで、編集後記を書いてゐるのです。これではいらぬ心配までしてしまひます。


 
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# 恩恵に感謝しながら その二 mardi 1er mars 2016

この著者たちのアラン像から

『人間的飛躍・・・アランの教育観』から『教育者アラン』へと読みつぎながら、これまでの自分のアランの読み方は、何度か繰り返し読んでゐますが、それでも「司書の読書」で、数度読んだといふ体験でしかないことを痛感させられました。


この二著の著者のやうに自分のアラン像を提示することはできません。像を描けるには、何度も何度も、繰り返し繰り返し読み、自分のものとなつてゐないといけないのでせう。アランは何度も読む読書をすすめてゐますが、そこまでの愛読書は自分にはないとしかいへません。


多くの人が知るピアニストのグレン・グールドがピアノを前にしてバッハを語る記録映像がありますが、この映像を見てゐると、バッハがグールドの体内に住み込んでゐるかと錯覚するほど、それほど自由自在に、つぎからつぎへと、バッハのさまざまなフレーズがピアノで演奏されながら、グールドのバッハ像が語られます。暗譜などといふ程度をはるかに超へてゐるのがこの映像からもよくわかります。アランがいふ繰り返し読む読書とはかういふことをいふのだと思ひます。


読書といふひとつの例にすぎませんが、しかし、何度も繰り返し読むかういふ行爲は、その人の生き方、いや、その人すべてを示して餘りあると考へられます。どういふ類の本を繰り返して読むのか、さうしてそこのなにに感心し、それを拾ひ上げ、そこからなにを考へるのか。さう考へると、読書からもその人の生き方、考へ方、感じ方が見えてきます。しかしこの自分の本の読み方はといへば、恥ずかしながら、アランがいふ「司書の読書」にしかすぎません。ただ知るために、時流に乗り遅れないために、慌てふためいて文字を追ひかけてゐるにすぎません。


20160301    < 自然の摂理が春到来を告げる 機 


自分には、いつも手元にあり、機会ある度に、折あるごとに、手を伸ばせば、必ず、頁が繰れる枕頭の書といふものはありません。頭が鈍いにもかかはらず、怠惰なうへに不精を決め込んで、勉強してこなかつたツケが、努力しなかつたツケが、いまここになつてさういふ形で明確になつてきてゐます。後悔が過りますが、これが自分のツケです。


禁忌事項が教へるもの

しかし、かういふ読書にもかかはらず、アランから、してはならぬこと、できる限り回避すべきこととして、要約と引用について学んだつもりでゐます。とくに引用の多用は、一見知的に見えますが、見えることとは裏腹に、そのじつ軽薄で、自分の頭で考へることの放棄を意味してゐます。


いまはどう評価されてゐるか知りませんが、一時期を風靡した評論家の小林秀雄を読んでゐたとき、だれもが知る『方法序説』のあの一節を髣髴とさせる文章にであつたことがあります。引用こそしてゐませんが、ありありと『方法序説』のあの箇所を思ひ出させるのです。ですから、小林秀雄も、まだ自分の血にも肉にもなつてゐない他人の考へを借用して、それらしく喋つてゐるのがわかります。アランを読んでゐて、さういふ箇所に出逢ふかといへば、これまで皆無です。逆にアランその人の表現に出逢ひ驚かされることがあります。たとへば「精神が奴隷にならない」やうな表現です。


書き手が、これぞと思ひ引用するのはいいのですが、思ひが災ひになり、思考放棄になつてゐて、気づかないうちに引用文献に「隷従」してしまつてゐるものを散見します。注意しないと、引用はさういふ落とし穴を用意してゐます。コピーアンドペースト現象がなぜ問題になるのか、それは考へればわかることです。


20160301

   < 自然の摂理が春到来を告げる 供 


書くといふことは考へる、思考するといふことと切り離せません。その書くことがコピーアンドペーストで済まされる。さうなると、考へる、思考することが、どこにも存在しなくなつても論文を仕上げることが可能です。これまで傍証はそれなりの意味があつたでせう。しかし、これだけ検索が日常的になれば、すべてが検索で済まされてしまひます。これでは傍証の意味もありません。


コピーアンドペーストの問題、しかし、なにが問題なのか明確にされてゐません。表層的な事柄ーー著作権、無断借用、剽窃などが問題にされるでせうが、本質はそれらではないのは明らかです。問題は人間が考へなくなること、人間が人間独自に備はつた思考を放棄してしまふことが最大の問題のはずです。さうでありながら、さういふ核心をついた問題提起がなされてゐないのが現在の日本です。日本の知能はこの程度です。気づいた時は取り返しのつかないことになつてゐるでせう。





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# 只今『モンサント』(作品社)読書中 mercredi 21 octobre 2015 

ただいま『モンサント』(作品社)を読書中です。 


20151021


『モンサント』のDVD映像版もでてゐます。もちろんYouTube でも見ることができます。


巨大企業モンサントの世界戦略 前編

https://www.youtube.com/watch?v=NR1UHgOK1OY


巨大企業モンサントの世界戦略 後編

https://www.youtube.com/watch?v=Ttp4kYB2Q70


科学で作られる食べ物の恐怖〜日本消滅の危機〜

https://www.youtube.com/watch?v=c9syiivqAN8


20151021


映像をみてよかつたら、ぜひ原作も読んでみてください。読めばそれだけ知らされることが多くなるはずです。


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