蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その三 mardi 9 mai 2017
あへて本文から離れて脱線するが、いはせてもらひたいことをいはせてもらふ。

この社説なるもの(あへてさういふが)を読むと、「この紋所が目に入らぬか」式のことしか書いてゐないのがよくわかる。

検証したり論じたりする以前に、まず自分の立場ーー左に立つか右に立つかーー有りきで、一方に与し、その立場から論じてゐる。だから結論は「この紋所が目に入らぬか」式になる。これはなにも考へてゐない証左だ。

実際に結論はだれもが予測する地点に着地してゐる。これでは紙面の無駄つかひ、読むものの時間の浪費でしかない。さらに悪質なのは、購読する人を見下し、その上購読料を掠めとつて、威張り踏ん反り返つてゐる。

立場といふものは、右(みぎ)左(ひだり)関係なく、おなじ側に立つてゐるつもりでも、異なるものだ。同じ立場にゐるつもりでも、事細かに聞き質して行くと、背中合はせの正反対といふ場合もある。

さうでありながら、この社説なるものは、根拠のない思ひ込みの善悪を振りかざして、愚にもつかない単純な論法を繰り広げてゐるだけである。

20170509
   < だれもがおなじ自由、おなじ権利をもつ >

第一段落の冒頭を見るだけで、すでに結論は予測できる。その程度のことしか書いてゐない。書き手は予定調和の自己満足の世界を書いて自己陶酔してゐる。購読者は、なにも知らず、迷惑にも、それに立ち会はされてゐるだけである。

よりよい民主主義を実現してゆくために、本来考へなければならない問題点は、この社説なるもののどこにも見出せない。マス・メディアやある学者たちは、オウムの一つ覚えよろしく、アメリカの安受売りーー「メディアは權力の監視者だ」ーーを唱へてゐるだけだ。

立場が変はると自らが「權力者」に取つて代はる。それを知りながら、気づかないふりをして、自らが權力者に成り代はり、自らのメディア媒体を利用して、弱者に權力を行使してゐる。これに立ち会はされる購読者は、わざわざ金を支拂はされて、悲惨な目にあつてゐるわけだ。これぞマス・メディアの歪んだ性悪さだ。列挙すれば切りがない。

ところでここに、マス・メディアがなにがあつても報道しない動画がある。 YouTube で見ることができる。しかし、これもいつか閲覧ができなくなるだらうから、ここに題名だけでも明示しておく。現在この動画を知る人は多いだらう。それによつて基地反対運動の実態を知ることができる。


「【ノーカット配信】沖縄ヘリパッド移設反対派リーダーが逮捕〜これが暴力行為の決定的証拠だ!」


さらにこの動画には続編がある。そこでは「(前回の)動画がクソだから撮らせない」と撮影を拒否してゐる場面がある。

この動画も文字起こしすれば、多くの問題が明示されるだらう。さうして考へる契機につながるはずだ。

20170509
   < 現実がどうあれ、せめて希望だけは >

最初「プロ市民」と聞かされても、この自分はなにも連想できなかつた。しかしこの動画を見て「プロ市民」といふ造語に心底得心がいつた。

日本は、民主主義の制度を取り入れてゐるから、民主主義国家である、と思つてゐる人がゐるかもしれない。しかし、この動画を見ると日本が民主主義国家であるとは信じられない。

日本の民主主義といふのは、表面的な体裁だけで、実際は憲法も存在しない、詭弁と暴力が支配する国に見えてくる。とくに沖縄の基地反対運動の実態をしるとさう思へて仕方がない。

たしかに憲法では思想の自由、学問の自由が謳はれてゐる。しかし、これが保障されてゐるのは左に属する人だけである。右に属する人にはそれらは認められてゐない。私学ではあるが、同志社大学の学長選挙を思ひ出すだけで充分である。

またこの社説なるものを読んでも同様のことが行はれてゐるのがわかる。




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# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その二 dimanche 7 mai 2017
では、つぎに「驚くのはその内容」がどういふものか検証してゆく。

 軍事ジャーナリストを名乗る人物の現地報告は、建設に反対する人たちを遠くから撮影し、「テロリスト」「無法地帯」などと呼んだ。「過激な反対運動の現場を取材」とうたいながら実際には足を運ばず、約40キロ離れたところからリポートした。

この段落まで読んで第一段落冒頭の「事実に基づかず」が具体的になにをさしてゐるのかわかる。「過激な反対運動の現場を取材」と名打ちながら、その現場には足を運ばず、約40キロ離れたところからリポートした。それが「事実」ではない論拠になつてゐる。

この論拠、まるで「どうした」と訊いてくれる大人に、泣きじやくりながら自分の正当性だけを訴へる餓鬼そのもの理窟だ。YouTube で「ニュース女子 #91」の冒頭二十分を見れば、見た人にはこのジャーナリストが現地に行けなかつた理由が伝はつてくるだらう。なぜ足を運べなかつたのか、なぜ四十キロ離れたところからリポートせざるをえなかつたのか、がわかるだらう。

またここで「特定の人々」の正体もわかる。「差別」と「偏見」といふ言葉を用ゐるから、どういふ人のことをいつてゐるのかと思へば、(高江ヘリパッド)建設反対運動をする人たちのことをさしてゐるのだ。よりによつて「特定の人々」とは、捻りを入れて、上手く言つたものである。

20170507
   < 希望を見つけるのか >

さらにこの期に及んで、つぎのやうに言ひ募る。

 不可解きわまりない「取材」であり、論評である。

取材のあり方を問題にするのなら、この社説といふ作文を書いて時間を潰してゐる人自らが現地に赴き、取材して、取材の手本を見せれば済むことである。地元二紙ーー琉球新報と沖縄タイムスーーの記者は問題なく取材できて、本土のジャーナリストが取材できないのはなぜか。

いついかなる時も支援してくれる地元二紙には取材させ、立場が異なると取材させない。これこそ偏見と差別だ。取材させない理由が立場を異にするからでは説明にならない。

取材させたくない不都合があるのなら、その不都合を取材してもよい都合に変へて行く必要がある。

『思考と行動における言語』を読めば「二値的」「多値的」といふ言葉に出会ふ。悲しいかな朝日新聞のこの社説は、二値的な考へ方の範囲を一歩も出てゐない。不勉強そのものである。それどころか二値的な考へ方に固守し、精鋭化し、さらに原理主義化し、兇暴化してゐる。さうなると衝突は必然で避けられない。悲しいかなこの社説と同じで悲惨な結末の現場が見えてしまつてゐる。

20170507
   < 飲み込まれるままに任せるか >

人間の智慧は一体どこへいつてしまつたのか。二値的思考に陥ると人間が人間でなくなる。どこかの教授だといふ人が「貴様は人間じやあない、ぶつ殺してやる!」と怒鳴つてゐ映像がある。歴史を持ち出すまでも及ばない。人間が人間でなくなつたから、かう叫べるのだ。もし仮に冷静に振り返られる時が持てるのならば、恥ずかしくて自分の昔を直視できないだらう。

ところでここでもう一点、「取材」についてだが、日頃「取材してわかつた」とよく聞く。しかしこれがほんとうに「取材」なのか。「取材」の名に値するのか。おおいに疑問がある。

なぜといつて設けられた場で一方的に「発表」される事柄を聞いて、それを録音し、それを「取材」といつて憚らない。これが「取材」としてまかり通つてゐる日常がある。

「取材」を問題にするのなら、一人のフリージャーナリストの「取材」を問題にする前に、多くの正社員身分のジャーナリストが日常的に行つてゐる発表を聞いくだけの、「取材」のあり方こそ問題にするのが先決だ。

反対派の人たちの殺気で、足を踏み入れられなかつた取材、もう一方では一方的に発表される現場にたちあふ「取材」、どちらが取材と言へるのか。


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# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その一 samedi 6 mai 2017
一月二八日の朝日新聞の社説「『偏見』番組 放送の責任わきまえよ」が掲載されてから、早くも三ヶ月が過ぎた。すでに忘れられた、遠い過去のことだと思はれがちだが、さうではない。逆に、かういふものは期間を置いて再読したほうがよい。

FacebookやTwitterの字数の決められた短文投稿をみればわかるやうに、人は関係する出来事の渦中にゐれると、つい感情的な、好悪だけの表現になりがちである。激しい感情的な好悪の表現がなにをもたらすのか、疑問だ。

一般意味論の本『思考と行動における言語』(岩波書店)を読むと、人は言葉や記号からシゲキを受けて反応し行動するものだ、さうだ。

また『イメージ Ways of seeing』(ちくま学芸文庫)によると「人間のものも見方は、その人がなにを知つてゐるか、なにを信じてゐるかによつて、変はつてくる」とも書かれてゐる。

さういふことを念頭に置いて、一月二八日の朝日新聞の社説を読んでゆく。どういふ仕掛けが施されてゐるのか、検証してみたい。冒頭はかうである。

 事実に基づかず、特定の人々への差別と偏見を生むような番組をテレビでたれ流す。あってはならないことが起きた。

20170506
   < この写真を撮る前に既視の風景がある >

この段落でまづ気になる表現がある。なぜこの表現を使ふのか疑問だ。それは「たれ流す」である。「放映した」ではいけないのか。なぜわざわざ悪い印象を与へるこの表現を選ぶのか、納得がいかない。読んで嫌な気持にさせるために、読んで悪い感情を引き起こすやうに、故意に「たれ流す」といふ表現を選んだのではないか、と疑はざるをえない。

まづ冒頭で「事実に基づかない」と断定してゐるのだから、それにつづく文章も「生むような」などと「推測」などしないで、断定して「特定の人々への差別と偏見を生む番組をたれ流す」としたらどうなのか。さらに断定が続いて「あってはならないことが起きた」と結んでゐる。

前出の『思考と行動における言語』においては、「報告」は二つの規則に従ふ必要があるとして、かう書いてある。
一つ、書かれたものは実証可能でなければならない。
二つ、可能な限り「推論」と「断定」は排除しなければならない。

このふたつは、報告とはなにかを定義してくれてゐる。そのことを踏まえてこの文章を読むと報告文になつてゐないのがよくわかる。普通報道に関はる人なら、このふたつは遵守するはずだと人は思ふ。しかしそれを見事に裏切つて、かういふ文章をたれ流す。これは報道を信じてゐる人を冒涜し、裏切り、誤つた考へに誘導する策術である。

日本の大多数の人は報道を信じ、それに基づいて、考へを巡らし、自分の考へを構築して、意見を述べてゐる。それを裏書するかのやうに『イメージ』には「人間のものも見方は、その人がなにを知つてゐるか、なにを信じてゐるかによつて、変はつてくる」と書かれてゐる。

書かれたものが実証可能な報告になつてゐなかつたら、読む人はどこに導かれるのか、想像すると恐ろしい。今日の日本の現状からすると、悲惨といふしかない。

20170506
   < ここで見た暗緑が白を際立たせてゐる >

『思考と行動における言語』において「断定」とは、書き手が述べてゐる出来事、人物事物について自分の賛成・不賛成を言い表すこと、とされてゐる。読めばわかるやうに、この段落の締め「あってはならないことが起きた」は、まさに断定そのものである。

さうしてみると、冒頭の段落は、断定、印象操作、断定となつてゐる。まづ断定で暴力を振るわれ、思考が中断されてゐる間に、印象操作され、つづいてまた断定で思考中止を余儀なくされる羽目に陥るやうになつてゐる。

つぎにつづく文章はかうである。

 ローカル局、東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)が、今月2日放送の「ニュース女子」という番組で、沖縄・高江に建設された米軍ヘリパッド問題を特集した。

一見報告文のやうである。しかしほんとうは報告ではない。なにがさうさせるのか。「米軍ヘリパッド問題を特集した」この部分が、唯一報告になりさうなのを報告でなくさせてゐる。報告するのだつたら「米軍ヘリパッド反対運動を特集した」とするべきだ。

さらにもつと読むに耐へないのは、つぎにつづく断定の文章「驚くのはその内容だ」だ。

つぎつぎと断定のパンチを繰り出し、読む人に衝撃を与へ、痺れさせ、考へる暇を与へない。これはなにを意味するか。

では、つぎに「その内容」がどういふものであるか検証してゆかう。
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# 反対しながら、すでに「共謀罪」を導入してゐる東京新聞 samedi 29 avril 2017
20170429
   < 時期が遅れてしまひましたが・・・ >

日本のマス・メディア(新聞もTVも)の報道が、いかに偏つてゐるのか、いかに悪質なものなのか、いかに権柄で、いかに横暴で、いかに有無を言はせない傍若無人なものか、それもいままでいかに正義面をして振舞つてきたか、その実態がネット社会のおかげで、やつとわかるやうになつてきた。

ネット社会が出現する以前は、ニュースを知るのは、日本のほとんど大多数の家庭では、定期購読してゐる一社の新聞に限られてゐた。その紙面で、ほとんどの日本人が、ものの見方、考へ方、感じ方を教へこまれてきた。ネット社会以前では、複数の新聞を、読み比べるといふことは、家父長制の父親の権威や新聞の講読料のことなどの諸事情があり、考へも及ばなかつた。

しかし、いまや与へら、提示され、教へ込もふとするマス・メディアの報道に疑ひを抱く人は、ネットを利用すれば、疑問や違和感に応へてくれる情報が存在し、それを知ることができるやうになつたのを知つた。

いまや新聞離れした多くの若い世代を筆頭にして、マス・メディアの報道を信じない人たちが増えつつある。さういふ現実がありながら、しかしもう一方で、マス・メディアは過去の栄光にしがみつき、過去を死守したいがために、現実を無視して、いまも自分の都合の良い報道にしがみついてゐる。

今年の二月二日朝刊に、地方新聞ではあるが、東京新聞につぎのやうな署名記事が掲載された。

「ニュース女子」問題 深く反省 沖縄報道 本紙の姿勢は変わらず
 
 本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会の東京MXテレビ「ニュース女子」一月二日放送分で、その内容が本紙のこれまでの報道姿勢および社説の主張と異なることはまず明言しておかなくてはなりません。

 加えて、事実に基づかない論評が含まれており到底同意できるものでもありません。

 残念なのは、そのことが偏見を助長して沖縄の人々の心情、立場をより深く傷つけ、また基地問題が歪(ゆが)めて伝えられ皆で真摯(しんし)に議論する機会が失われかねないということでもあります。

 他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています。とりわけ副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します。

 多くの叱咤(しった)の手紙を受け取りました。 
 「一月三日の論説特集で主幹は『権力に厳しく人に優しく』と言っていたのにそれはどうした」という意見がありました。

 それはもちろん変わっていません。
 読者の方々には心配をおかけし、おわびします。
 本紙の沖縄問題に対する姿勢に変わりはありません。
 (論説主幹・深田実)

さらにこの記事の下に、漢数字の使ひ方からして、別の人が書いたと思はれる。問題となつたニュース番組の説明記事が掲載されてゐる。

◆「ニュース女子」問題とは
 東京MXテレビは1月2日放送の番組「ニュース女子」で冒頭約20分間、沖縄県東村(ひがしそん)高江の米軍ヘリコプター離着陸帯建設への反対運動を取り上げた。本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会を務めた。

 「現地報告」とするVTRを流し、反対派を「テロリストみたい」「雇われている」などと表現。反ヘイトスピーチ団体「のりこえねっと」と辛淑玉(シンスゴ)共同代表(58)を名指しし「反対派は日当をもらってる!?」「反対運動を扇動する黒幕の正体は?」などのテロップを流した。辛さんは取材を受けておらず、報告した軍事ジャーナリストは高江の建設現場に行っていなかった。

 MXは「議論の一環として放送した」とし、番組を制作したDHCシアターは「言論活動を一方的に『デマ』『ヘイト』と断定することは言論弾圧」としている。辛さんは名誉を侵害されたとして、1月27日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会に申し立てた。

 のりこえねっとは沖縄の現場から発信してもらう「市民特派員」を募集、カンパで捻出した資金を元手に、本土から沖縄までの交通費として5万円を支給。昨年9月から12月までに16人を派遣した。

そこで東京新聞副主幹の司会者長谷川幸洋がどのやうな発言をしてゐたか 『ニュース女子』 #91 から文字起こしをしてみた。なほカッコ内の補足は蛮茶菴がした。

これ(沖縄への飛行機代)はだれが出してゐるの?

地元のメディアは(反対運動に)シンパシーがあるから(取材できる)

普通のメディアは報じやうと思つたら、報じられない(わけ?)

つまり、あなたはだれですか?井上さんといふ人です。

ちよつとききたいのはお金(のこと)ですよ。

五万円日当を(これは飛行機代金五万円と勘違ひしてゐる)・・・

これ(飛行機代)はだれが出してゐるの?

まあ、この手の反対運動で、たとへば怪我人が出るとか、ましてや死者が出るとかして、そんな話にでもなつたら、それこそ火がついてしまふからね。

ああ、それで、また、もめると。

ああ、さういふこと。

井上さんご苦労様でした。

また機会があつたら。

以上が司会者の発言である。この発言のどこに虚僞、ヘイト、デマの問題発言があるのか。

この発言で「ニュース女子」で司会をする東京新聞の長谷川幸洋は東京新聞論説副主幹の任を解かれ、降格されたといふ。

文字起こしした発言からもわかるやうに、長谷川本人は虚僞発言も、デマ発言も、ヘイト発言もしてゐない。

だのに東京新聞は長谷川本人とは無関係に、謝罪記事を掲載し、謝罪し、挙句に、長谷川幸洋論説副主幹を罰し、降格処分にしたといふ。『共謀』したとみなされて、『罪』された、としか思へない。あれだけ共謀罪に反対しながら、自らは共謀罪を適用して自社の社員を罰する。呆れた所業である。

それに、ここでいはれる報道姿勢とは何なのか。報道は、事実を、多面的多次元的に、公平に、偏りなくするのが常識だらう。その他にどういふ報道姿勢が必要なのか。

報道は、社の方針、社の社説の主張、イデオロギーに基づかなければいけないのか。変ではないか。低次元で話にもならない記事である。

新聞社の意向に沿はないから論説副主幹の長谷川幸洋はダメだ、とわざわざ公の新聞紙面を割いて言つてゐる。だれに、またはなにに忠誠を誓つて、忠義を尽くすのか。

東京新聞の意向は、右と左なら、左。その意向に基づいて報道されるものなのか。左は常に正しい。東京新聞の記事はさういふものだ、と断言してゐる。愚にもつかない、知られたらまずい低次元な話を臆面もなく記事にして載せてゐる。

日本のマス・メディアは、無邪気にといふか、妄信してといふか、愚かといふのか、アメリカのマス・メディアを模倣して「権力を監視する」のが至上の務めだと信じて疑はない。本来権力を監視するのは有権者一人一人であつてマス・メディアではない。それが民主主義である。

メディアは単なる報道機関にすぎない。メディアに接すればわかるが、メディアに、特に日本のマス・メディアに「権力を監視する」能力はない。

メディアの最重要な仕事は、国民各人に考へてもらふために、多面的多次元的に公平に偏りなく出来事を報道することだ。これを蔑(ないがし)ろにして、権力を監視したり、国民を教育しなかればならないといふ思ひ込みは、不遜そのものである。

色付けや、断定や、偏見のない多面的多次元的な報道、多様な文脈のなかに置かれた報道、人々はそれら偏りのない情報に基づいて考へる。辛抱の要る大変な道程だが、これが民主主義の在り方だ。よりよい民主主義を育てるためには忍耐強く、これをどこまでも辛抱強く繰り返し実行していくしか方法はない。

それを奨励することなく、なにを勘違ひしたのか、歴史の浅いアメリカの受売りを信じて、考へもせず、鸚鵡返しよろしく「メディアは権力を監視する」と臆面もなく、声を張り上げて日本のマス・メディアは主張する。間違つた果てに、国民の上にたつて、号令をかけて憚らない。

かういふ土壌に民主主義は育たない。なによりもまず第一に、マス・メディアからして人間を信じてゐない。組織が、人間を超え、人間を押さえつけ、人間を蔑ろにし、人間を愚弄し、人間を無視してゐる。人間の考へではなく、組織の考へが最優先されるのである。

権力の監視者だといつて、だれ憚らないマス・メディア。イエスかノーの二者択一、二値的な価値しか認めないマス・メディア。独裁者そのもののマス・メディア。そのマス・メディアが、表向きは民主主義を賞讃しながら、しかしその裏では、舌をべろりと出して、民主主義を粉微塵に破壊、崩壊させてゐる。

俺様は全てを牛耳る真の支配者。影の独裁者。歪んだ権力者。さう俺様は日本のマス・メディアだ。
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# 「土人」発言といふ暴力 lundi 20 février 2017
考へることを放棄した教条主義者ほど怖いものはない。

ネット上には、これまで考へられなかつた情報が溢れかへつてゐて、偶然思ひもかけない情報に接したりすることがある。

沖縄の地方新聞の記事もその例に漏れない。最近ネットで新聞記事を見ると以降は登録してとなつてゐて、有料記事になつてゐる。しかし一方では、社説などは、読ませたいのだらう、各社無料でどれだけでも読むことができるやうになつてゐる。「社説一覧」と入力するとそのサイトをみることができる。そこを覗くと社説が好きなだけ読めるやうになつてゐる。

いまでもこれら社説をありがたがつて読む人がゐるのかもしれないが、さういふ種類の人は、おそらく化石時代に属する人なのだらう。どの社説も書き方は一面的で、内容も一面的で、陳腐で、読むに耐へられないものばかりである。第一書き手の高慢な態度が、鼻につく。なぜ命令調の態度をとらなければならないのかわからない。時代錯誤の標本を見せられるやうだ。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを、と書いた学者先生のものも陳腐である。記事は、占師のごとくすべて推測で、これで原稿料がもらへるのだから結構だ。書き手と掲載者には責任がある。その責任はどこにあるのか。記事のどこにも見えてこない。

ネットで、無料で、閲覧できるのだから、引用しても問題はないだらう。

 非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。

20170220
    < おなじヘリパッドでも場所が変はれば >

これは冒頭の部分である。ここで着目すべきことは『「土人」発言という暴力を振るった』といふ箇所だ。「発言を暴力」とするのなら、金網を利用した挑発行爲や挑発言動ももちろん暴力になる。

さうなると「非暴力の闘争」ではなく、「暴力の闘争」になり、また「暴力を使わずに」ではなく、「暴力を使つて」といふことになる。これで、この書き手の理論が破綻してしまふ。それにもかかはらず、かういふ理論の破綻した記事を掲載する新聞社もお里が知れてしまふ。

 猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。

沖縄の基地問題は差別構造に由来するのか。さうではないだらう。地政学的観点に由来すると考へられる。

 もちろん、それが一般化し「沖縄人は土人だ」という空気が広がる可能性もある。その場合、沖縄は独立せざるを得ない。そのときは世界中がそれを容認し、日本は威信を喪失するだろう。だからこそ、ここが闘いどころだ。

この文章が掲載されたのは二〇一六年十月二六日、いまは二〇一七年二月二十日(月)。沖縄の人は土人とみなされてゐるだらうか。「可能性」は残念ながら裏切られてゐる。この書き手の理窟からいふと、土人とみなされるのなら沖縄は独立しなければいけないのだが、土人とみなされてゐないのだから独立の必要性はない。おかげで日本は威信を喪失しなくてもすむ、といふことになる。

まだ少し続きがあるが、あまりにも稚拙なので、もう論じる気もしない。考へることを放棄した教条主義者の陳腐さ、狂信さ、独断さだけが目立つ。可愛さうに、肩書にすがつて、声高に喋つてゐる人間の姿がみえてくるだけだ。

蛇足だが、むやみやたらにカタカナ語を乱用しない。漢字で表現出来るカタカナ語は漢字で表現する。カタカナ語の乱用は日本語の衰退、いや日本文化の衰退につながる。アジェンダとかアクションなんて不要なカタカナ語は使用しない。実際にここに使はれるアジェンダ(議題)は意味不明だ。





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# 言葉尻を捉へた土人発言報道 dimanche 15 janvier 2017
YouTube のつぎの動画で、機動隊員が土人、支那人といつてゐる画像をみることができる。芥川賞作家の目取真俊が撮影し投稿したものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=-SANg73TJJQ 
( 敢へてリンクしません。興味があつたらクリックしてご覧あれ )

ニュース作りーー敢へて「作り」と強調するーーに携はる人たちにとつて、ネタ探しは死活問題だ。そこへこの土人発言。メディアのニュース探し人にとつて、これは千載一遇の好機。案の定、大ニュース、大問題として、扇情的に、煽り立ててニュースに仕立て上げてゐる。

だから思惑通りこの動画を見れば、だれもが憤慨するだらう。さういふ動画であるが、この画像には欠けてゐるところがある。偶然、自然に、抜け落ちたものではなく、敢へて、故意に、削除したふたつの要素だ。作家が投稿したものだ。どこを捨てて、どこを強調するか、編集はお手のものである。

20170115
   < 大地の恵みを吸収すべく根をはつて >

5W1H( When Where Who What Why How )はだれもが知つてゐる。情報を発信するには遵守すべき要素だ。しかしこの動画を見る限り、この中のふたつの要素ーー Why と How ーーが抜け落ちてゐる。それも編集されて、故意に。

5W の Why にあたる、「なぜ土人と発言したのか」といふ Why が抜け落ちてゐる。また1Hの How にあたる、「どのやうな状況下で」土人発言に至つたかといふ How が欠落してゐる。ジャーナリストといはれる専門家が使用する動画としてはお粗末といふしかない代物だ。しかしそれを敢へて使用してゐる。

ニュース作りとして、故意に、これら二要素を無視した作りだ。といふことは、ニュースとしては偏狭で、偏りがあり、煽情的で、動画を見る多くの人に事実を伝へる努力がなされてゐないと見做されても仕方がない。

20170115
   < 冬の陽光を浴びて凛として >

人は知る得る説明や情報に基づいて考へ判断する。普段の平穏な状況下で、一方的に突然土人といはれたのなら、問題にされるべきだ。しかし、さうではない。だのに状況の説明がなされてゐない。これは人の知る権利を妨害し、ある方向に導かうとする意図に基づいたプロパガンダ、つまり政治的意図に基づいた宣伝行爲だ。

賞を取るほどの物書きなのだから、かういふ姑息なことはしないと思ふが、現実は、動画を見る限り、さうでない。物書きの端くれなら、土人発言に至る経過を収録し、どのやうな状況下で土人発言がなされたかを明らかにすべきだ。さうでなければ問題の本質が疎んじられた感情対立を煽るだけで終始してしまふ。

少なくとも、これは報道として動画を採用するメディアが指摘すべき事柄なのだが、いまのメディアにさういふ能力はない。それほどメディアは能力が低下し、異状で、常識が通用しない状況のやうだ。




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# 成人式式典をなくす絶好の機会 mardi 10 janvier 2017
このさい成人式式典をなくしませう、と提案したらどうだらう。新成人かどうかわからないが、昨日九日は、故意に立てる、バイクの、耳をつんざかんばかりの大爆音が、離れた大通りから家の中まで飛び込んできた。

グーグルの国際ニュースを見ても、新成人のトラブルニュースの見出しが目につく。国際と名がつくのだから、本来国際的でないニュースは掲載しないのではと考へるのだが、なぜか国内三面記事ニュースも混入されてゐる。

国際と名を打つのなら、その名の通り、世界の文脈から日本を知ることができる国際ニュースがあるべきなのだが、さういふものは期待できさうもない。表示の仕方も、国際情勢を知る優先度が重要視されてゐるわけでもない。この記事ーー高齢者乗せタクシー27時間不明鹿児島、運転手が意識不明ーーのどこが国際ニュースになるのか知らないが、国際ニュースの上から四番目に表示されてゐる。

新成人にまつわるトラブルニュースも国際ニュースとして扱はれてゐる。理解に苦しむ。ところで法律では、十八歳に選挙権が付与され、十八歳は成人として遇されてゐやうになつた。しかしもう一方では、旧来通り、二十歳が成人としてみなされ、公共施設で、市長や国会議員など政治家といはれる人々が出席して、公的に成人式が行はれてゐる。

20170110
   < 柊の花 美しいものにはトゲがある >

商売が成立つこともあるのかもしれない、またさういふビジネス筋からの嘆願や圧力があるのかもしれない。なぜならこれらの人々も有権者だから、政治家連は怖いもかもしれない。されはさうと、成人のこの問題、矛盾には蓋がされたままだ。

必ず成人式を行はなければならないのならば、成人年齢が、法律で、十八歳に引き下げられることが決まつた時点で、十九歳になる人も、二十歳を迎へる人も、成人式を行へばよかつたのだと考へる。

なにも対処しないから旧弊は旧弊として残つたままだ。十八歳は政治家のエゴのために、二十歳は商売人のエゴのために、成人として祝はれることになつてゐる。ほんとうに祝ふ人々に祝ふ氣持があるのだらうか。大いに疑問だ。

いつものやうになにも対処がなされない。矛盾状態が放置され、そのために、日韓の慰安婦問題のやうに、後々まで残る問題になるかもしれない。



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# ボブ・ディランとノーベル文学賞と夏目漱石 mercredi 23 novembre 2016
二〇一六年のノーベル文学賞は、かつていはれたやうにフォークシンガーといふのか、いま風にミュージシャンといふのかしらないが、アメリカのボブ・ディランに決まつたさうだ。

なんの賞でもさうだらうが、一般的に、発表するまでの手続きは、断られるといふことも考慮して、事前に本人もしくは関係者に連絡があり、受賞の意思を確認して、それからといふことになる。ノーベル賞に関しては、他の賞とは異なり、報道を知る限りでは、決定した当日に連絡をとつたさうだ。

比較の対象にならないが、思ひ出されるのは、桑田佳祐の紫綬褒賞の受賞。年越しライブでの一連の出来事ーー紫綬褒章を尻のポケットか取り出し、モノマネをして笑ひをとつたさうだ。

その後、その行爲にたいしてなされた批判、それをことなきに収めるためと解釈される釈明文。受賞に至る一連の手続きを考へると不可解な行動をしたものだと思はれる。真意は測りかねるが、手続きとして、受賞の意思を尋ねられ、それを受諾したのだらう、さうでなければ受賞はない。

しかし、それにもかかはらず、知る限りでは意味のない半畳を入れ、おまけに釈明文まで公表したのだから、一連の手続きを知る人から批判がでるのは当然だらう。

さてボブ・ディランに戻つて、報道はそのときの状況を、ボブ・ディラン本人は「寝てゐる」といふことで、直接電話口にでなかつたと告げてゐる。以來ボブ・ディランと連絡が取れない状況が続くなか、ノーベル財団事務局は連絡を取るのをやめた、と報道がなされた。

この状況に関して、さまざまな憶測があつた。が、このままボブ・ディラン本人がなにも発言しなければ、授与式のある十二月十日を待つより方法はないだらう、といふことになつてゐた。

20161123
   < ものは見方次第 >

しかし十月二八日、ボブ・ディランは口を開き、ノーベル文学賞に対する態度を明らかにした。それまでの間、つまり無言期間の十月十三日から二八日までになされたさまざまな発言が興味深い。これもまた一個人の憶測にしか過ぎないが、もつとも興味深いのは選考委員長本人のボブ・ディランにたいする「無礼で傲慢」だといふ発言だ。

なぜ「無礼で傲慢」なのか。「無礼で傲慢」なのは、立腹する発言者本人ではないだらか。

発言者本人からしてみれば、「ノーベル賞」はたとへどんな人間でも、素直に嬉々として喜び、無条件に受け入れる権威ある賞だ、それを疑はない、といふ狂信に似た確信があるのだらう。それを保留にされたことが信じられなかつた。だから、導火線に火がつき、この発言の爆発につながつたのだらう、と思はれる。

興味深いもので、約二週間のボブ・ディランの沈黙は人間模様を見せてくれました。さういふ意味で、考へる契機となつたボブ・ディランのこの沈黙に深謝してもいいでせう。

もし選考委員長本人が稀に見る謙虚な人であつたのなら、この沈黙から最大の恩恵を引き出し得たのは、委員長本人をおいて、だれもゐなかつただらう。つまりこの沈黙で、考へることの根源に立ち戻れたのは委員長本人をおいて存在しないのだ。

委員長は、もう一度、「権威とは何か」といふ問に立ち返れることができただらう。現在ノーベル賞の権威を疑ふひとはだれもゐない。それを承知で、この権威の由来は、この権威の正体は、この権威は、と疑問を呈し、再考したとしたらだらう。

仮に、権威の由来は賞金の額だとみなしたら、どうだらう。日本円に換算すると一億円近い賞金額が権威を成す、権威とみなされるといつてもあながち間違ひとはいへないだらう。もし賞金をなしにし、顕彰にとどめたとしたら、ノーベル賞の権威は不変だらうか。不変だとしたらこれほど素晴らしい賞はない。しかし、それはあり得ないことだらう。

20161123
   < ものは考へ方次第 >   

三文映画で題名も忘れたが、しかし、その映画で記憶に残つたセリフ
ーー「本物の人間になりたければ本物の革命家になれ」。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を契機にして、注意を拂つて、考へてもいい言葉ではないだらうか。

なにものにも多面性があり、言葉もその例外ではないのだから、ただ単にニュースに反応するだけではなく、多面的に、自分のこととして思へるのもひとつだ。

夏目漱石( 1867 - 1916 )四十四歳のときにおきた、博士号をめぐつての文部省との事件がある。あくまでもアジアの一国内の出来事で、今回のボブ・ディランのノーベル賞のやうな規模ではないが、それでも、この出来事の詳細を知ると興味深いものがある。

これも文部省の勅令で、漱石の関知しないところで、一方的に決められ、新聞紙上に発表されたことで、それを知つた漱石の辞退である。ここには当時の文部省の、その役人の傲慢の一端も窺ひ知ることができる。

つまりは漱石は文部省の権威を認めなかつたのだ、と考へられる。文部省の勅令に従ふことは、単に手続き問題などではなく、それ以上に漱石には我慢ができなかつたことがあつたのだらう。

権威を認める認めないは、それを上に置くか下に置くかであり、それによつて、それ以降の振る舞ひも影響されるのは当然だらう。

漱石は、さういふ権威を、国家の威信を、わが頭上にいだきたくはなかつたのだらう。だれにも、なにものにも拘束されることのない自分でゐたかつたのだらう。「本物の人間」をめざしてゐたと推測してもいいだらう。







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# 十月は神無月 lundi 3 octobre 2016
十月になりました。

ときには「神無月」といふ言葉を思ひ出してもいいのではないか、といふ思ひが浮かびました。

さらに前後の月の日本独自の呼称を思ひ出すのも、いまでは一興か。

20161003

九月は長月(ながつき)、十一月は霜月(しもづき)。

いまはだれもが疑ひもなく機械的に数字で月を表しますが、かうした日本独自の呼称を思ひだすと、途端に抽象が具象に変貌し、手触り感が出てきます。

20161003

まるで、音訓読みのやう。数字で表す月が「音読み」の抽象世界、日本独自の呼称の月が「訓読み」の具象世界。

ときにはかういふことに思ひを馳せるのもいいのではないか。





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# 蓮舫、山尾、この人たちも政治の破壊者 vendredi 30 septembre 2016
ネットでニュースに目をとおしてゐたら、みたくもない、蓮舫の発言記事があつた。最初に感じたことは「よくいふよ」といふ呆れた思ひだつた。

「責任を取ることは当然だが、どういう意味合いで発言したのか、明らかにしていただかないと(いけない)。クビを切ったから、なかったですよという話にはならない」(産経ニュース(9/30)だけがここまで書いてゐた)

先日まで台湾と日本との二重国籍問題であれこれ報道されたゐた蓮舫議員。その舌の根が乾く間もないうちのこの発言。これはそのまま本人に返つてくる。それに氣づかないほど愚かなのか、この厚顔無恥な民進党代表は。

問題が起きると結末はいつもおなじ。はつきりとわかりました、理解できました、とふのではなく、国民のだれ一人として首肯できないまま、あへて承知のうへで、曖昧模糊、有耶無耶、正体不明になつて終はりといふ幕引きばかり。

蓮舫議員の二重国籍問題の説明、一体国民のどれだけの人が、理解して、納得してゐるのか。

大多数の国民が、説明とは裏腹に、納得してゐないのが現実だ。

20160930         
  < 自然は、だれが見てなくても、務めを遂行する >

保育園問題で「日本死ね」で烈火のごとく、追求の先頭に立つて、国会で熱弁を振るつた山尾志桜里議員、地球五周分のガソリンの問題がでると、途端に豹変して、釈明会見も有耶無耶にして、問題の幕引き。

この二人に共通してゐるところ。攻めるときは、徹底的に、どぎつく、攻めたてて、これでもか、これでもかと、ぐうの音もいはせず、エゲツなく攻めたてる。

一転、矛先が自分に向くやうな事態が発生すると、玉虫色、曖昧模糊、詳細を調べさせていただき、報告させていただきますと、見てくれだけは卑下てみせて、ひたすら逃げの一手。言葉だけは謙りくだつてみせるが、だれもみてゐないところでは、真つ赤な舌をペロリと出して、平然と国民を裏切り、うそぶき、騙して、バカにしてゐる。

これでは、だれも信用しなくなる。政治の不信のタネを蒔いてゐるのは、なにも与党に限つたことではない、野党の花形議員としてメディアに持ち上げられてゐるこれら輩も不信のタネを蒔いてゐる。結局はおなじ穴のムジナに過ぎない。

蛇足にもう一言。
国会は女性議員のファッションの場ではない。目が腐るやうな、見たくもない三流以下のファッションに汲々とする時間があるのなら、ビジネススーツに身を固め、誠實に、政策論争を行ひ、国民に問題を氣づかさせるために、理解させるために時間を費やしなさい。それが政治にかかはるひとの務めである。






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