蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 『日本の長い戦後』 その四 samedi 23 mars 2019
日本敗戦後七十数年経つた現在でも、韓国が日本に対して要求してくるあれこれを念頭に置いて、『戦争責任と追悼』の、バルトのいふへぼ作家、えせ作者が書いた、意味を持たないプラスチック・ワードの麗句だけでできた文章、その文章を再読してみやう。

 私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる。過去に学ぶことが多いほど、幅狭い了見にとらわれて自らの将来を閉ざすのではなく、むしろ未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が、国際的にも信頼される礎石になると信じている。

どうだらう。なにが見えてくるだらう。「身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が」手に取るやうに見えてくるだらうか?

事前に念密に打合せしたかのやうに、これは韓国の要求と生き写し、瓜ふたつの双子そのもの、ほぼ百パーセント、実に隙間なく重なり合つてゐる。また同様、日本政府のなかにも韓国とぴつたり重なりを持つ人たちがゐる。それは、なにごとにも、政府の判然としない対処を知るとわかる。それは昔からのこと。日本の国民は呆れはててゐる。知られてゐないどこかで、手放せないほどうまい汁を吸つてゐる人たちがその対応にあたつてゐるからだらう。

20190323

ジュンク堂が池袋に進出する以前、駅を挟んだ反対側の西口に芳林堂といふ本屋があつた。そこでの若い女子店員のヒソヒソ話、文庫本の会社別のランクの話がおもしろかつたのをいまでも覚えてゐる。その子たちにとつては、それが最初に覚えなければならない業務知識だつたのかもしれない。

福間良明はマクルーハンの「メディアはメッセージ」を取り上げて、情報を盛るメディアについても述べてゐる。メディアそのものが、認識の仕方や社会編成を変容させていく力をもつてゐることに触れてゐる。

みすず書房から出版された『日本の長い戦後』についても同様のことがいへる。ある程度の読書人にとつて、みすず書房は出版業界のランクの上位にある信用の置ける会社である。そこから出される本は、出版した時点で、それだけの信用性を有するものとして受け取られるし、さういふ見方を受け手に与へ、流通する。ただし内容が硬いから、さほど売れるものではないといふ認識も伴つて。本の装幀も、みすず書房独特の白を基調とした作りになつてゐる。

読み手は、内容以前に、さういふ既知情報を前提として、この本を手にする。だから批判的な視点でこの本を読む人は少ないだらう。メディアはメッセージとはさういふ先入観をいふ。当然先入観が正しいときもあれば、さうでないときもある。

今回は後者であらう。さう考へてゐる。

20190323

トラウマを治療するには、トラウマを惹き起こした原因を特定して、それを治癒する対策を立てることである。ところで日本人として日本で生きてゐると、奇妙な現実を知らされる。

毎年八月になると、必ず戦争の話が持ち出される。仕掛け人は映像メディアであり、文字メディアであり、音声メディアである。さらに奇妙なことは八月十五日を過ぎると、掌を返すやうに、途端に戦争の話が姿を見せなくなり、消えてしまふ。さうして来年の八月まで完全に姿を消してしまふ。

これを日本は何十年と亘つて繰り返してゐるのである。まるで問題が解決してしまふと飯のタネがなくなるのを恐れてゐるかのやうである。だから数年ごとに新しい視点を設けて、そこからの語りが論じられる。つまり新しい話題での井戸端会議がはじまるのである。

「美しい国」の記憶、「悲劇の国」の記憶、「やましい国」の記憶。この記憶の順番を見て何も感じないか?この順番は自然な並びだらうか?メディアの仕掛けを感じないか?戦争に駆り出された人の記憶をどれほど集めても、戦争の真の姿は炙り出せない。それは前にも言つた。

それを承知で、毎年八月になると延々と企画して、戦争に召集された人たちを懺悔させる。この懺悔を見て満足しながら、同時につぎを構想する人たちがゐる。完治しない病は八月十五日を過ぎると放置される。さうして完治しない病は、また翌年の八月前に再発する。実に巧妙に仕込まれてゐる。

八月に特集する戦争ものを二月に特集したとしたら、赤字になると顰蹙を買ふだらう。心底トラウマを治したいのなら、集中治療すればよい。いやこれは不治の病か?不治の病であつてもらいたいのか?

詰まる所、この本を読んでも戦争のトラウマの正体は判らない。正体がわからないから、対症療法も見つけられない。それよりも治療以前に、来年の八月には戦争のトラウマにどのやうな傷口が発見されるのか?この蟻地獄に快感を見出し楽しむ人たちがゐる。









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# 『日本の長い戦後』 その三 vendredi 22 mars 2019
前回は一九九四年『読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事』(リヨン社)が朝日新聞の横槍で絶版にされたことを取り上げた。

それから十三年が経つた二〇一七年、朝日新聞は同様の似た事件を起こしてゐる。すでに昔のことと忘れてゐる人もゐるかもしれないが、俗称朝日新聞五〇〇〇万円訴訟である。『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を巡つて著者・小川榮太郎に裁判を起こし、五千万円の損害賠償を請求する裁判で、二〇一九年の現在も裁判継続中である。

「私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる」のなら、かういふ裁判を起こすだらうか。

「過去に学ぶことが多いほど・・・略・・・未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が」あるのなら、かういふ裁判を起こすだらうか。

いふこととやることが真逆である。このことからもわかるやうに、朝日新聞の本性は、拝みたくなるほど不変である。だが、いまはインターネット社会、切り取り報道に泣き寝入りしなくてもよい時代になり、弱者は弱者なりに、被害者は被害者なりに、当事者は当事者なりに、もう一つの事実を発信して、報道されない事実、つまり既存のメディアにとつて不都合な隠蔽された事実を知らせ反撃すことが可能になつてきた。

さらに、もうひとつの隠された事実を知らされることで、反応が生まれ、共感や支援の輪が広がり、その拡大がさらなる広がりをみせてゐるのも事実である。

微弱で微小で微力ではあるが、朝日新聞を頂点とする旧メディアの一方的な報道に疑ひをもち、否を言ふ変化が生まれつつあるのも事実である。さう言ふ意味では、これまでのやうに情報の獨占は許されなくなつてきてゐし、虚僞も露見しやすくなつてきた。

さて『日本の長い戦後』だが、考察対象としてゐるデータは四三〇件。その論考データは朝日新聞の読者欄に掲載されたものださうだ(『日本の長い戦後』三七頁参照)。当然それらには、これまで見てきたやうに、朝日新聞のバイアスーー考へかたや意見や偏りーーがかかつてゐる。

バイアスがかかつたデータとは、朝日新聞が満足し、及第点をつけた、お気に入りのデータである。そこから導かれる結論は、いふまでもなく、朝日新聞の考へ方に合致したものになる。つまりは掲載投稿は朝日新聞が望む予定調和されたものしか掲載されないでのある。しかし、さういふ掲載記事を無限に蒐集しても得られるものはなにもない。

それにマイケル・ポラニーがいふやうに、「部分の総体は全体にはならない」。さらに、筆力を度外視して、書き手の書いたものを全幅の信頼を置いて考察をしても、そこから一体どのやうな結果が導き出されるのか。それは、さうする以前から、すでに明白である。コンピュータの世界でも言はれるやうに、ゴミを入力してもゴミしか出力されないのである。

井筒俊彦が『読むと書く』(慶應義塾大学出版会)でつぎのやうに述べてゐる。

 「書く」といえば、昔流の考え方では、客観的に何かを文字で書きあらわすことだった。頭のなかにあらかじめ思想(私註:書くこと)が出来上がっていて、それをコトバで再現する。内的リアリティとして、コトバ使用以前に確立している「自分」を表現する。あるいは、外的世界の客観的事態や事件をコトバで叙述し、描写する。・・・中略・・・
 ところがバルトは言う、そんなのはへぼ作家、えせ作者のやることであって、真に「書き手」の名に値する、本物の作家のすることではない。真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。・・・中略・・・次々に書かれる言葉が意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する。

時間を経て、戦場にゐたこともない現在に生きてゐる人々が、好む好まざるに関はらず、駆り出さ、戰爭に従事させられた人たちのことを、口角泡を飛ばして、論じ、裁いてみて、一体そこになにが得られるといふのか。それほど人は鈍感で、無責任で、想像性に欠けてゐる。

岡田英弘の著作を読めば教へてもらへるが、国家が誕生するまで、国は存在しなかつた。国家が生まれ、国民が誕生し、国がする戦争に国民が駆り出されやうになつた。さうして国民といふ人々が戦場で敵対する国の人々を殺するやうになつた。二十世紀の戦争は国民といはれる人々が、言葉のレトリックによつて、戦場に駆り出され、戦ふことを強いられた時代であつた。

戦場に駆り出された国民は、どの国家の国民であつても、被害者である。問題にされなければならないのは、戦場に出ることもなく、机上で戦争を準備し、戦争を命じた人間たちである。そのなかには、もちろん戦争を煽つた報道機関も存在する。

それを隠蔽して、臆面もなく、毎年毎年、果てることなく、八月になると、戦争をさせられた国民に、戦争を思ひ出させ、戦争責任を問ふ。朝日新聞はじめ、日本の報道機関のこの卑劣さ、本末転倒も甚だしい。








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# 『日本の長い戦後』 その二 mercredi 20 mars 2019
前回は『きけわだつみの声』の編集で気になつてゐたことを書いた。後年、この本は、渡辺一夫が最初に望んだ形に再編集され、削除されてゐた全ての手記をも含め出版されたさうだ。

20190320

戦後七十年を経て、今日『きけわだつみの声』を、特に、削除され復元された手記を読む人のなかには、渡辺一夫が予想も想像もしなかつた読み方をする人もゐるだらう。渡辺一夫は著作集を見る限り、座右の銘は「群盲象を評す」のやうだが、『きけわだつみの声』において、自身もその通りになつてゐるやうである。

かつては理解できなかつたが、ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左に分かれるのか』(紀伊国屋書店)を読んだいま、渡辺一夫が予想できなかつたであらう人たちの気持ちを、微かだが、崇高であると理解できるやうになつた。

アーネスト・サトウの『遠い崖』を読むと、薩英戦争のイギリスの武力の差による一方的で、圧倒的な勝利を知ることができる。しかし、武田楠雄の『維新と科学』を読むと、一方的であつたイギリスの勝利に対しても、薩摩藩の反撃の一矢があつたのを知ることができる。

イギリスは、当時の最新鋭の戦艦を、まづ沖合ひに停泊させ、偉容を見せつけ、無言で脅かす。さうするだけで、他国では、戦火を交へることなく、勝敗が決してゐたのだらう。しかし薩摩藩では様子が違ひ反撃があつた。取るに足らない一矢だが、それがあるかないかでは様相も変はつてくる。

硫黄島の戦いも、クリント・イーストウッド監督の映画を見るまでは、考へることもなかつた。見てからも日本の指揮官に対する疑問も残つた。この疑問は、その後残つたままだつた。しかし、ジョナサン・ハイトの本がそれを氷解してくれた。

ジョナサン・ハイトの本は引つ掛かつたままだつた『ソクラテスの弁明 クリトン』の疑問も氷解してくれた。ソクラテスが裁判の判決に殉じて、平然と死を迎へ入れたのはなぜかを考へればよい。

20190320

知ることで読み取り方が変はる。読み落としてゐたものの重要さに気づかされることがある。

ここに朝日新聞が掲載記事をまとめた『戦争責任と追悼 歴史と向き合う』といふ本がある。図書館で見かけて借りてきた。この本の初めに企画趣旨が掲載され、かう締め括られてゐる。

 私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる。過去に学ぶことが多いほど、幅狭い了見にとらわれて自らの将来を閉ざすのではなく、むしろ未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が、国際的にも信頼される礎石になると信じている。

さて、この文章を、精神疾患を患つてゐる人に与へられた処方として、医学的に読んだらどうなるだらう。恢復の期待が持てるだらうか。なにも医学的に読む必要もない。ただ速度を緩めて、ごく自然に読んでみるだけで、空らつぽな中身のない内容だとわかる。文章とは恐ろしいものである。張りぼてのつなぎ合はせの空疎な文字が、そこに羅列されてゐるだけで、揺るぎのない絶対的なものに見えてきて、人間を締め上げるのだから、怖いものである。

続いてつぎの文章を読んでもらひたい。

 本書は発売禁止となった本の復刻版である。
 といっても、太平洋戦争中の言論弾圧で発禁となった本の類ではない。昨年末、朝日新聞の抗議により絶版となった『読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事』(リヨン社)を改定、再編集したものである。
 『読んでびっくり・・・』は太平洋戦争中の朝日新聞記事を引用しながら、検証するという本で、1994年夏に刊行、増版を重ね、順調に発売部数を伸ばしていた矢先の同年末、版元が朝日に折れる形で絶版を決定したのであった。
 朝日の抗議は著作権法を盾にしたものだった。

20190320

さて、この文章を念頭に置き、つぎはもう一度『戦争責任と追悼 歴史と向き合う』の企画趣旨の文章を読んでもらひたい。

 私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる。過去に学ぶことが多いほど、幅狭い了見にとらわれて自らの将来を閉ざすのではなく、むしろ未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が、国際的にも信頼される礎石になると信じている。

朝日新聞とはかういふ新聞である。朝日新聞を知るのに、これ以上のものはない。「反省」の一語で自社の不都合な過去を闇に葬むる。さう言ひつつ読者には臆面もなく歴史に向き合へと強ひる。厚顔無恥。それ以外の言葉があらうか!

朝日新聞が有するこの破廉恥さは、大河のごとくいまも脈々と流れ受け継がれてゐる。「報道しない自由」もさうである。この意味は、報道する事実がありながら、それを報道しない。それを報道してしまふと朝日新聞の主張の論理が破綻する。それ故、その事実を隠蔽して、ないことにする、といふのである。これでは民主主義は夢のまた夢である。

メタタグ然り。吉田調書然り。従軍慰安婦然り。モリカケ問題然り。列挙すればきりがない。それが日本を代表するクオリティーペーパーだと自己宣伝する朝日新聞である。自ら心の鋤き返しをできないものが、他者に心の鋤き返しを強ひる。どの口でいふか!人を愚弄するにもほどがある。

日本人の戦後のトラウマの正体がわかりかけてきた。











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# 『日本の長い戦後』 その一 lundi 11 mars 2019
20190311

この玉葱の写真を見て、人はなにを思ふだらう。人さまざま、暇つぶしにイタズラで撮つた写真だから、どう思はれてもよい。

しかし主張を込めて撮つた写真や本だと、さうはいかない。伝へたいものを、ある程度の確率で、正確に受け手に受け取つてもらへたとしたら、作者として、これ以上の至上の喜びはないだらう。

ここに『日本の長い戦後』(みすず書房 橋本明子著 山岡由美訳)といふ本がある。再読になるのだが、前回は読了することなく途中で放り出した。それにも懲りず、期待をもつて、また読みはじめたのだが、期待は叶へられず、無駄な時間となつて、終はりさうである。が、せめてさうならないためにも、「なぜ」残念な結果に終はるのかを探つてみたい。得るものはなにかしらあるものである。

日本人が有してゐると主張する敗戦のトラウマをテーマにしてゐるが、この本を読み終へて、心的障碍の原因が究明できたかといふと、さうではない。少なくとも、一読者として、得られたものはない。逆にこの著者は整理整頓するだけで満足し、トラウマの原因を究明するために、多くの資料を、それも批判的に読み込み、検証したのか、といふ疑問が残る。

さらに、この本は書籍となつて値段がつき、販売される値打ちがあるのか、といふ疑問も残る。悪辣で、失礼かもしれない、それにこの著者は若いが、ゆとりのある年配者が終活本を作る、それとおなじ類の本ではないか、といふ疑問も残る。

一点に絞つて論じると、参考にしてゐる著者の参考文献、それに、本当に目を通してゐるのか、といふ疑問が第一に挙げられる。ここで例に挙げる参考文献は福間良明の『「反戦」としてのメディア史』である。『日本の長い戦後』の索引から、福間の名前は三回出てくる。

以前読んだ渡辺一夫の本に、敗戦直後訪問して歓談する知人友人に、蓄音機で軍艦マーチのレコードに針を置いて、それを聞かせたさうだ。もちろん聞かされた人たちの反応も書いてある。その渡辺一夫が自身の著作集のどこかで、『きけわだつみの声』の編集方法に触れて書いた一文があつたと記憶する。

福間良明の『「反戦」としてのメディア史』にもそのことが、渡辺一夫が触れなかつた時代背景も含めて、つまりGHQの検閲も視野に入れて、紹介されてゐる。渡辺一夫は、学徒出陣した全ての学生の手記をと、主張したやうであるが、出版社の編集方針と合はず、ある傾向をもつた手記は割愛されることになつたさうである。

敗戦直下、連合軍占領下、訪ねて来る知人友人に軍艦マーチを聞かせた渡辺一夫には意図があつたのだらうが、GHQが、プレスコードを決定し、言語統制をし、出版物の検閲をしてゐた当時は、その目論みは許されなかつたやうである。

『日本の長い戦後』の裏側の本として、『「反戦」としてのメディア史』を読むと「長い戦後」、つまりトラウマがどのやうにして作られたのか、原因を窺い知ることができるだらう。

20190311

『日本の長い戦後』の著者も朝日新聞信奉者のやうである。臆することなく朝日新聞の反省の弁を紹介してゐる。つまりかうである。「反戦の語りの根底には、自社(朝日新聞社)が戦争中に翼賛報道に協力し、読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省がある」と。

ここで立ち止まつて考へてもらひたい。

第一になぜ朝日新聞は「翼賛報道に協力し」たのか。
唯々諾々と翼賛報道を報道したのは、告げられる内容を確認、調査、検証してのことか、はたまた信じてのことか?いづれなのか。

第二に「反省」で済む問題なのか。
戦争で命を落としたり、あるいはその状況下に置かれた人々のことを思ふとき「反省」だけで済むのか。反省ではなく「責任」が問はれるのではないのか。しかも、その責任は、今日も続く、未来永劫のものであるはずである。

しかし、この著者は続けてかう書く。「自らの戦争責任を認識しているがために、国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難の調子はとくに厳しい」と。

20190311

実に得手勝手。薄ぺつらい紙のやう表裏、考へた形跡もない。あるのは衒学(ペダンチック)趣味だけである。

読む人はだれでも気づくことだが、ここで、卑劣な言葉のすり替へが行はれてゐる。

「反省」がいつの間にか「責任」にすり替はつてゐる。メディアも、往々にして、爲政者をはるかに凌駕する最高の権力者である。そのメディアがこの世界を牛耳つてきたと断言しても過言ではない。その権力者が怪しげな反省ですませながら、他方、他者の責任を徹底して追及をする。

身内同士は傷を舐め合ひ、誤魔化し、有耶無耶にする。しかし、返す刀で、他者には徹底して容赦なく抉るやうに追及の手を突つ込み、責めに責める。この不均衡。これでは報道は報道にならない。ましてや信用も、信頼も、信実も生み出さない。同調するのは尻馬に乗る軽薄な野次馬類だけである。

朝日新聞はじめ、オールドメディアと云はれる既存の既得権をもつ報道がいかに陳腐であるか、それは二〇一八年からの国会のモリカケ問題を一目するだけで諒解できる。そこでもわかるやうに、責任不在の体質は、旧態依然、いまも変はらず連綿と続いてゐる。それは、だれの目にも明瞭である。








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# ドブに五億円を捨てた沖縄県 mercredi 27 février 2019
たつた一文字「新」のために、ドブに五億円を捨てた沖縄県。

新基地反対と、飽くことなく繰り返し、ドンチャン騒ぎして、なにを隠したかつたのか。

隠したかつたのは、普天間米軍基地の移転とその危険性の除去。

しかし、投票結果をもつて、今後新基地建設反対運動はこれまで以上に、手の施しやうのないほど激化する。

普天間の一坪地主の市民たちは、金づるの基地には口を噤み、基地の危険性もないことにする。

20190227

新基地といふ「新」の漢字一文字が惹き起こした、どこにも本質が論じられない、レトリックのペテン。まさにそのペテンのために五億円が消えた。

普天間米軍基地移転反対といへば馬脚が現れる。だから新基地建設反対と市民と称する人たちは叫ぶ。金のため、慾のため。人間ここまで愚劣になれるのである。

それよりも諸悪の根源は、つぎの選挙の当選を、一人妄想して、三択といふ意味のない提案をした沖縄自民党の議員たちである。万事休す。手の施しやうがない。













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# 平蔵は平蔵でも vendredi 22 février 2019



平蔵は平蔵でも、こちらの平蔵は、人間の尊厳なんてどこ吹く風、見ての通り、人を人と見ない言葉巧みな銭ゲバ野郎、国民の財産を断りもなくグローバリストに売り拂ふ下衆野郎、挙句の果ては民主主義の破壊者。

有識者と称して政治の中枢に入り込み、その立場を利用して、表面は兎も角ウラ世界では、私的に、国民(ひと)の褌で、利益誘導を図り、薄笑ひを浮かべ、暴利を貪つて、私腹を肥やしてゐる。

20190222
   < 醜悪(グロテスク)さも人間の本性の一部だけど >

『鬼平犯科帳』の鬼平こと長谷川平蔵の生みの親、それに竹中平蔵の名付け親も、あちらの世界から呆れ返つて見てゐるだらう。

天誅よ、下れ! さう願ふ人は多いだらう。











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# 新聞といふ名称を信じてゐると lundi 11 février 2019



新聞(TVも含めて)といふ名称をこれまで疑ふことはなかつた。疑ふことがなかつたから、必然的に、新聞で報道された内容をそのまま信じてきた。

しかし、多重・多層、多様・多面的に報道の内容を知ることができるやうになつた今日、これまでの報道がどれほど一面的であつたかを知ることができるやうになつた。

知れば知るほど、読む人に考へるための情報を知らせるのではなく、読む人をわが意図に従ふやに作られた報道ばかりである。

20190211
   < 生命力に限らず、力を見限るとやがて痛い目に逢ふ >

ある人が、ある新聞社のことを指して、あれは新聞社ではない、情報操作会社だと断言する。聞いた人は苦笑するけれど、苦笑でやり過ごすことのできない発言であり、指摘であり、教示である。

端的に、それが理解できる事実がある。子供でもわかる「報道しない自由」。それを捻じ曲げて、偏向報道を「報道しない自由」を理由に、自らの報道の正しさを主張する報道関係者。風刺画そのものである。

これを素直に理解すると、報道は常に情報操作されてゐる偏向報道そのものである、と報道関係者自らが吐露し、自白し、告白してゐるのである。

自らの報道が自らを貶めることも知らず、人間を信頼できない人たちが、真実を追求することを無視して、われらこそが愚衆を教へ導く使者なのだと狂信する人たちが、報道にかかはり、報道を垂れ流す。これは、われら人間の自殺行爲につながる。










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# 岡田英弘著作集、これまでにない著作集 mercredi 6 février 2019
著作集といはれるもの
自分の書棚に著作集があるくらいの人なら、著作集といふものがどんなものであるか知つてゐる。どの著作集もさうだが、これまで単行本として発表してきたものを集め、さらにその周辺的な雑記を加えて、お茶を濁したものが相場である。

気に入りに書き手がゐて、その人の作品が出版されるたびに、購入して読んできた読者にとつて、著作集が出版されると聞くと、さういふ編集だと知りつつ、それでもやはり気になつて、購入してしまふ。

しかし、この著作集なるもの、所詮は目先を変へ、商売を優先して、売らんがために編集したものだから、集めてきたものは大したものでもない。

読者は安心のために書架に並べるけど、再読するときは、やはり自分の読んだ跡が残る単行本を取り出して読むのが普通だらう。

稀有な著作集
しかし、こと岡田英弘の著作集はそれらのものとは異なる。完全に相違すると断言できる。

20190206

岡田英弘を知つたのは昨年の暮れのことである。最初、図書館で著作集犬鮗擇蠅篤匹鵑如△海凌佑僚颪い燭發里蝋愼して、手元に置いて、読むべき本だと判断した。さて、最初に購読した本は『歴史とはなにか』である。

その他にもおなじ著者の単行本数冊ーー『世界史の誕生』『日本史の誕生』『倭国』『倭国の時代』『中国文明の歴史』などーーも購入した。後日知つたことだが、これらはロングセラーで、絶版を心配して、慌てて購入する必要などなかつたのだと。

『歴史とはなにか』を読んでから、宣伝用の黒地の帯の背に白抜き文字で「歴史とは何か」と書かれた著作集気鯑匹鵑澄さうして脱帽した。理由は、多くの著作集のやうに、単行本になつた『歴史とはなにか』を再録してゐないことである。

単行本も著作集も共に生きる
もちろん購入するときに著作集の「はじめ」を一読して購入したのだけど、「はじめ」で断つてゐる通りの編集著作になつてゐる。これだと単行本も著作集もともに生きてくる。読み手としては、読み違ひも生じることなく、単行本の行間と行間を知ることができ、理解が深まる。申し分ないものである。

偶然はじめた最初の読み方が、手応へがありよかつたので、この読み方を踏襲して、『世界史の誕生』を読んでから著作集兇鯑匹鵑澄いまは『日本史の誕生』を読んでから著作集靴鯑匹鵑任陲襦もうすぐ著作集靴眛瀕擦垢襦

つぎは著作集犬帽圓たいところだが、その前に、急ぐことなく『倭国』『倭国の時代』を読む計画である。









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# ふつくらとした柔らかい切れ味がする庖丁 samedi 2 février 2019
いつもは自己流で庖丁を研いでゐた。けれども、いつも研ぎあがつた庖丁の切れ味に不満があつた。そこで庖丁の研ぎ方を動画サイトで調べ、納得できる動画を二、三見つけ、その方法に従つて研いでみた。

その結果、どこか柔らかさを感じさせる切れ味の庖丁に研ぎあがつた。この感触ははじめての経験である。さうして、これでいいのだといふ実感・自信を掴んだ。

これで、いつでも庖丁にこの切れ味を蘇られらせる手応へを掴んだ。それはさうとして、そのためには、砥石の手入れをしておかなければいけない。使用する道具の手入れをして、砥石に窪みのない平面を保つて置く必要がある。窪みは研ぎには天敵で、平らでなければ庖丁は台無しになる。

20190202

十年以上経つだらうか、かつて川越の刃物店『まちかん』で見せてもらつた五ミリほどの薄さになつた砥石、その時のな長さの継続が、いま理解でき気がする。

受け継いで使用してゐるわが家の砥石は、どれもこれも中央部が窪んでゐる。さういふ砥石で研いでも、刃が均一に研ぎ上がらないのだから、切れ味がよくなるはずがない。

『まちかん』の人は、また、仕上げの最上の砥石は人の掌です、かうして掌でと、庖丁の刃を返しながら、教へてくれた。

二〇一五年だつたか、知人が、『まちかん』の青年がブラタモリのTV番組に出てゐるのを教へてくれた。代々「時の鐘」の鍵番をしてゐる『まちかん』。その青年が「時の鐘」の、いつもは施錠されてゐる階段の鍵を開け、独特のあの口調で、タモリを案内してゐるのをみた。

さういふことも思ひ出させた庖丁研ぎだつた。






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# リレーアタック手法で盗まれる jeudi 31 janvier 2019
車にスマートキー機能がついてゐると、鍵さへ持つてゐれば、鍵を操作することなく、車のドアも開けられるし、エンジンもかけられる。文句なしの機能である。

しかし、この機能が悪用されて、車が盗まれる事件がおきてゐる。電波が一致さへすれば、その時点で所有者に関係なく自分の車になる。だから数分もかからない。


20190131
   < 昔は、こんな程度でなにごともなく済んでゐた >

いまは車だけだが、やがて家もさうなり、空巣にも利用されるだらう。在宅不在に関係なく、いつでも自由自在に泥棒さんの出入りが可能になる。さういふ時はすぐ目の前に来てゐる。

どう対策したらいい?対策を講じないと自己責任になる?心配は尽きない。

便利になり、負担が減り、楽になつたのはいいけれど、新たな心配のタネがもう芽吹きはじめてゐる。



追伸
かういふ習慣はないのだけど、在宅時は常にフック形式の原始的な内鍵を施錠しなくてはならない。さうしてはじめてリレーアタックの空き巣を防げるやうになる。アナログに頼らなければならないとは、なんとも皮肉な時代錯誤なことだ。(20190202)






| comments(0) | trackbacks(0) | 19:02 | category: ひとり言 |
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