蛮茶菴

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# 前略 新潟県知事 米山隆一殿 其の四 断罪して片づけたつもりが思考停止 vendredi 12 janvier 2018
これまで米山隆一が書いたものを中心に見てきたが、ここからは問題にしてゐる元横浜市長の中田宏の動画はどうなつてゐるか、動画を確かめてゆく。

百聞は一見に如かず、まず中田宏の動画の中身を確認する。


まず動画の頭で、大阪市長がサンフランシスコ市へ、市長へーーー悪意のある碑文の慰安婦像を(サンフランシスコ市の)公共物にしないようにーーー働きかけた経緯を述べてゐたことがテロップで示される。

動画では、「影響・実害はありません」とした後に、以下のやうに続けてゐる。「ただ大阪市は毎年(この時期、サンフランシスコ市へ)抗議意志を伝えて欲しい。また日本国民もサンフランシスコ市にEメールを送るなど抗議をしてもらいたいと思います」

「特に英語の達者な方は冷静な文章でサンフランシスコ市へ日本人の意志を伝えて欲しいと思います」

碑文には「この記念碑は1931年から1945年までアジア太平洋の13ヶ国において日本帝国陸軍の性奴隷であった数十万人の女性や少女の苦しみを証言するものです」
「性奴隷にされた女性や少女たのほとんどが囚われに身のまま亡くなりました。この陰惨な歴史は1990年代に生存者が勇気を持って声を上げるまで数十年間も隠し通されてきました」と虚僞が書かれてゐる。

ここで、振り返つて、新潟県知事の米山隆一のブログの文章をもう一度読み返してもらひたい。事実を曲げる悪意はどちらにあるのか?新潟県知事の米山隆一か元横浜市長の中田宏か。





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# 前略 新潟県知事 米山隆一殿 其の三 断罪して片づけたつもりが思考停止 mercredi 10 janvier 2018
以下の二文に注目!
 それで飽き足りないのか氏は、「【橋下徹さん後継】大阪市長。慰安婦像のサ市なんて、切っちゃえ!」「横浜市長の経験から、姉妹都市関係を解消したからといって特段の影響・実害はありません」と過激な科白を連ね、あろうことかサンフランシスコ市のメールアドレスを示して、そこに抗議のメールを送るように一般の方々に呼びかけています。

さらに氏は、「【橋下徹さん後継】大阪市長。慰安婦像のサ市なんて、切っちゃえ!」と述べ、「横浜市長の経験から、姉妹都市関係を解消したからといって特段の影響・実害はありません」と報告し、サンフランシスコ市のメールアドレスを示して、そこに抗議のメールを送るように一般の方々に呼びかけています。

灰汁
下の文章は、上の文章の灰汁(あく)を取つただけのものである。

これで灰汁ーーー「それで飽き足りないのか」「過激な科白を連ね」「あろうことか」ーーーといつてゐるものの正体が理解できるだらう。

文の種類
さて、引用文がふたつ並んでゐる。
ーーー「大阪市長。慰安婦像のサ市なんて、切っちゃえ!」「横浜市長の経験から、姉妹都市関係を解消したからといって特段の影響・実害はありません」ーーー

20180110
   < 文章にだつて灯るものがないと >

これらふたつの引用文を見ると、先の引用文は元横浜市長中田宏の考へを述べた「意見文」であり、後の引用文は「横浜市長の経験から」と経験を告げた「報告文」である。

見てわかる通り、種類、性質の異なる文章を一緒くたにして、「過激な科白を連ね」と括つてある。なぜこのやうな粗雑な文章の括り方をするのか。

文章は生き物
前の文章は意見で科白といつてもよい、しかし、後の文章は報告で科白ではない。だのに「過激な科白を連ね」とする。ここにあるのは無神経である。真摯さもなければ、論理性も整合性もない。あるのは誤謬である。

どうしても「過激な科白」といふ表現を使ひたいのなら、「一万歩譲って」先の引用文の意見文に対して用ゐるしかない。さうなると「連ね」られないし、「特段の影響・実害はありません」の後がつながらなくなつてしまふ。つなぎ言葉ーーーあろうことかーーーが意味をなさなくなつて、宙に浮き上がつてしまふ。

かうしてみると文章は生き物であるのがわかる。この文章は、息絶へ絶へで、七転八倒してゐるのがわかるだらう。



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# 前略 新潟県知事 米山隆一殿 其の二 断罪して片づけたつもりが思考停止 lundi 8 janvier 2018
米山隆一の文章
成人式のけふ、職業柄、新成人を前に祝辞を述べてゐるだらうが、その言葉が新成人の心に届き、琴線に触れるかどうか。

文は人なり。書いて表現するものに、その人そのものが現れる。前回新潟県知事米山隆一のブログを取り上げた。その文章に米山隆一がどのやうに表出してゐるか検証してみた。

思考停止「断定」
まず題名ーーー「日本にとって百害あって一利ないサンフランシスコ市への抗議メールを煽る中田宏氏の不見識」ーーーだが、題名からしてすでに中田宏を断罪してゐる。

「日本にとって百害あって一利ない」と断言してゐるが、これは米山個人の見解に過ぎず、多くの人が是認したものではない。この見解に賛同する人もゐれば、反対する人も、無関心な人も當然ゐる。

思考停止「修飾語」
つづいて題名は「サンフランシスコ市への抗議メールを煽る中田宏氏の不見識」となつてゐる。この「煽る」も読み手によって分かれるところである。言葉通りに受け取るか、さういふ言葉遣ひではなく、単に「すすめる」でいいのでは、といふ人もゐるだらう。

20180108
   < 流れに身を任せたからといつて >


「不見識」と言ひ切り、断定、断罪する米山の表現に、おなじく賛同する人もゐれば、否定する人もゐるだらう。なにはともあれ、この題名で、すでに内容が想像できてしまひ、先を読まない人も出てくるはずだ。

さういふ米山の主張に賛成か反対かは埒外に置いて、本文を見てゆく。

ーーー元横浜市長、元維新国会議員の中田宏氏が、「【慰安婦像を公用物に?慰安婦の日?】私は「ウソつき者」記念日を作ります!」と言う煽情的なタイトルのブログに、更には、「慰安婦の記念日と韓国が言ったから、8月14日は嘘つき記念日」なる、率直に言ってご人格がもろに表出しているお顔を出されたバナーまで貼っておられます(しかし、その人の自由とは言え、よくこんなものを公開できるものだと思います)。ーーー

鉤括弧の部分は引用だから問題ないとして、しかしつぎに現れる「煽情的」といふ言葉、これは米山個人の見方に過ぎず、素直に「・・・と言うタイトルのブログ」とすればいいので、なにもわざわざ、「煽情的」といふ言葉を用ゐるまでもないだらう。

腐心した挙句
それよりも、つぎに続く文章は、書き手が自己主張に腐心する餘り、自分の書く文章が尻切れとんぼになつてゐるのに本人自身も気づいてゐない。

20180108
   < 身を任せるのが解決にならない >

ーーー更には、「慰安婦の記念日と韓国が言ったから、8月14日は嘘つき記念日」なる、率直に言ってご人格がもろに表出しているお顔を出されたバナーまで貼っておられます(しかし、その人の自由とは言え、よくこんなものを公開できるものだと思います)。ーーー

意味なく乱用
もうひとつ不思議なのは、括弧の使用法。「率直に言って」と断つて意見表明しながら、もうひとつの意見表明は、括弧で括られてゐる。理解に苦しむ。

この意見表明にしても、本来書く必要なんてない。客観性の伴はない主観を並べたてるのは感心できない。それよりも客観的事実を優し、客観的事実に語らせるのが本来の文章である。

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# 前略 新潟県知事 米山隆一殿 其の一 mercredi 3 janvier 2018
BLOGOS
BLOGOSといふブログ記事を紹介してゐるサイトがある。グーグルニュースを手繰つて目にした「日本にとって百害あって一利ないサンフランシスコ市への抗議メールを煽る中田宏氏の不見識」と題したブログ記事があるのを知つた。当人のブログで読んでわかつたことだが、これを書いた人は米山隆一といふ人で新潟県の知事ださうだ。

限界を知る
政治家も情報発信する人が増えてゐる。だから、さういふ情報に触れて、その人を知ることができる。知名度があれば、それだけ他人の関心を引きやすいだらうが、だからといつて、その意見が注目に値する重要、大切なものとは限らないだらう。所詮人間の考へること、なにごとにも限界がある、だから鵜呑みにするのではなく、検証すべく保留を残しておく余裕が必要だらう。

文章には表現者の判断が示される。使用された言葉から、その判断を拾つてゆくと表現者の姿が現れてくる。使用された言葉は、未来永劫、置換不可な絶対のものではない。表現者が変はれば、もちろん使用する言葉も変はる。また、たとへ同一の表現者でも、学び、新たな情報を知ることで、使用する言葉も変はつてくることもある。だから判断はあくまでも一的なものに過ぎないのがわかる。

表現者が留意すべき大切なことは、なにを知つてゐて、なにを知らないか、自分の限界を知つてゐることである。知つてゐながら、それを秘匿するのは論じる者として資格が問はれるだけでなく、罪にも問はれるだらう。

20180103
   < 平成三十年 正月元旦 >

米山隆一の限界
米山隆一のブログには「右」に触れて、かういふ一節がある。

ーーー中田氏に限らず、昨今流行りの「右」の方々は、なにか気に入らない事があると、自分たちの正義を振りかざして、大挙して抗議のメールや電話を相手に送りつけ、争い事を嫌う日本社会のなかで問答無用に相手に不利な状況をもたらして自らの主張を通す、所謂「電凸」という手法を使ってきました。そのような脅迫にも類似した手法が日本社会で幅を利かせていること自体極めて腹立たしいーーー

しかし米山隆一のおなじブログには「左」に触れた箇所はない。「左」は正義そのもので、どこにも問題がない、のか。

「左」を知る
いま「左」の実態を知る一番の近道は沖縄米軍基地反対活動を知ることだらう。 YouTube の検索欄に山城博治(沖縄平和運動センター議長)と入力して検索してみると、先頭に表示されるのは、このアドレスである。https://www.youtube.com/watch?v=8eS4o-CxyjI&t=310s

この動画を見て、新潟県知事米山隆一は「右」だけを問題にすることができるのだらうか。常識的に考へて、それはあり得ないだらう、と判断するのが一般的ではないだらうか。

それだけでない「右」を問題になるのなら、これら「左」の暴力も問題にすべきだらう。

安全保障問題で自分の研究に基づいて賛成意見を述べた元同志社大学学長・村田晃嗣を非難した一連の運動。CHRISTIAN TODAY に掲載された「心から恥ずかしく思う」と題して、同志社大職員有志が安保法案支持の学長を批判した。

20180103
   < 新たな年、晴れわたつた空の下で考へる >

学者として学問的な意見が述べられない。「右」といふ理由で排除する「左」。だれでも人間として享受できるはずの「学問の自由」を否定する「左」。

作家百田尚樹の一橋大学KODAIRA祭講演取り消し問題。こちらは知る人は知る出来事だから、ネットを検索すれば、いくらでも情報は得られるから、あへて情報元は示さない。

我那覇真子』ラジオ沖縄防衛局が放送終了の危機」これも「左」の言論暴力である。

少なくとも、米山隆一は、これら「左」の実態も同列に論じるべきである。

見習ふべき自戒
新潟県知事米山隆一のブログは建て付けの悪い、なんとも使ひ勝手の悪い安普請の家のやうで、読むにも考へるにも値しないやうである。

ーーー抗議は、正当にそれを行う権限があり、かつ適切な言葉を使ってそれができる行政・外交の専門家に任せるべきです。ーーー

虚僞だらけの文章。どこの世界に自分の意見を代弁してくれる人がゐるのか。海外に行けばわかるが、意見を言はないのは意見がないか、愚者だからとみなされる。だからあちらの人は、どんな人でもその人なりの意見をいふ。

適切な言葉を使ふ必要性は当たり前である。では米山隆一は「適切な言葉」を選んで使用してゐるのか。皮肉にも、ブログのどの言葉をとりあげても不確かでしかない。これは自分自身に向かつて、自ら発した自戒の言葉なのだらう、さうあつてもらひたい。




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# 『日本の長い戦後』を読みながらー10 lundi 1er janvier 2018
前回は
前回は一九九〇年以前の「戦争の記憶」のデーター不足のことを書いた。「長い戦後」のトラウマを考察するのなら当然のことである。バブル時代に「やましい国」の記事はどれだけあつたのか。仮に十年単位に時代を区切り、それらの時代にどういふ論調の記事が書かれてゐたのか、その観点が欠けてゐる。さういふことを知ることがトラウマの原因究明の手がかりになるだらう。

以前存在しなかつた観念
『祖国のために死ぬこと』(みすず書房)といふ本がある。それを読んで、『日本の長い戦後』の第1章を再読してみる。人さまざまだが、気づかされ再考すべきなにかが生まれるだらう。少なくとも観念や概念は、説明の必要に迫られて生み出されていくものだとわかるだらう。戦争での「死」の意味が問はれることがなかつたら、「祖国」といふ観念、概念も生まれなかつたらう。

20180101
   < 戦争を知る 捕虜を通して >

戦争を考へる契機
ところで、第二次世界大戦があつたことは、多くの日本人とおなじで、自分も学校で、歴史の授業で教へられる程度のことしか知らなかつた。ただ、それだけだつた。『ガラスの宮殿』(新潮クレストブック)を読まなければ、戦争のことなど、生涯考へことなどなかつたらう。

『ガラスの宮殿』を読んで、なぜか促されるものがあつて『中村屋のボース』を読んだ。『朗読者』『サラの鍵』『浮世の画家』『日の名残り』などを読んだのはいつだつたか忘れてしまつたが、これらの作品も、戦争を考へるのに、どこかで役割を果たしてゐる。とくに『サラの鍵』は、ヴィッシー政権下のフランスの実情を知らされた。触れられたくないフランスの汚点が、いまもフランス人の心のどこかに生き続けてゐる印象を受けた。これらの作品の読書も、戦争を考へる契機になつた。

20180101
   < 戦争を知る 人種を通して >

また、すんでのところでホロコーストを逃れ、成人して精神科の医師になつたユダヤ人が書いた『憎むのでもなく、許すのでもなく』(吉田書店)は、著者の体験が、職業的な視点で裏打ちされてゐて、客観的で、トラウマを知るのには、有意義な、意味ある著作であるのも知つた。

メディアの責任
さて、年を越して十回にわたり書いてきたが、どこにも生産性を見出せないので、この辺で終はりにする。朝日新聞の従軍慰安婦記事取り消しを待つまでもなく、メディアが作成したドキュメンタリーは実証的検証に耐へられるのか、おそらく耐へられないであらう。翼賛報道した朝日新聞は反省したといふが、具体的な反省も見出せなければ、矜持もない。日光猿軍団の猿の反省ポーズにも劣る。

朝日新聞の自社の正義(?)、名誉(?)のための報道姿勢には、真実を示す情報を隠匿るす信じられない知的倫理の頽廃がみえる。報道を信じる学者、研究者、購読者への裏切りである。これが日本を代表する知性と自ら吹聴するとは、おこがましいにもほどがある。『日本の長い戦後』もその被害者であらう。

20180101
   < 戦争を知る トラウマを通して >

日本の文化的トラウマからの脱却は、メディアが制作したドキュメンタリーの実証的検証する以外にはない。南京大虐殺の写真を検証した学者が、使用写真はどれもどこかで使用されたものを、写真説明を差替へて、再使用してゐると断言してゐる。南京大虐殺を著した人は責任をもつてそれに反証すべきである。これが知的倫理といふものだ。



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# 日本の政治 dimanche 31 décembre 2017
挑戦
挑戦するとは、定められた限界に臨み、限界を突破し、限界を超えやうとする試みだ。

限界の突破は、限界の障壁の除去であり、新たな空間、新たな展望、新たな希望をもたらし、人間を新たに解放する。

国の無駄遣ひを検証して、スーパーコンピュータ予算をやり玉に挙げて、「二番ではダメですか」と愚にもつかない発言をした女性政治屋がゐた。

その女性政治屋の言に従ふなら、人間は永遠に限界の壁の内側に留まるしかない。

20171231
   < 人の眼差し >

小姑の如く
それがなにをもたらしたか。いまの国会を見ればわかる。突き破る胆力もなければ、知力も気力も体力もない。だから展望が開けない。

本質問題を棚上げにして、箸の上げ下ろしのやうな、取るに足りない後ろ向きな、細かい点、言質ばかりを問題にする。

悲しいかな、こともあらうに、それが野党の存在意義になつてしまつた。野党のどの党をとつても、言葉遊びに耽り、現実問題処理能力はない。二大政党なんて絵に描いた餅。

20171231
   < 人の思ひ >

政治の育成
野党を育てるのはだれか。古今亭志ん朝が、芸人を育ててくれるのは演芸場に足を運んでくれるお客さんだ、と言つた。政治の世界もおなじだ。

多くの人が政治に目を向け関心をもつことだ。ワイドショーの井戸端会議には目もくれず、自らの目で確かめる。それでも政治は一筋縄でいかない。だからといつて、傍観してゐては変化も挑戦も生まれない。

人々に「賢くあれ」といつてゐるのは古今東西不変である。この賢さはロボットの人工知能の賢さではない。血の通つた人間の感性を備へた賢さを求めてゐるのだ。

理窟は二の次でよい。感性が許さなければ、「違ふ」と声をあげればよい。さうして考へはじめればよい。




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# N.Y.十二人死亡火災記事 dimanche 31 décembre 2017
ニューヨーク・ブロンクスのマンション火災(28日夜)で十二人が亡くなつた記事が国際ニュースに掲載されてゐる。

グーグルの国際ニュースに掲載されてゐる記事を比較して読んだ。AFP の記事に見逃してはいけない重要なことが書かれてゐるが、他社の記事には、そのことは完全に欠落してゐて、一行たりとも触れられてゐない。これでは報道の役割も意味もなさない。

20171231

すでに起きたこの火災をどうすることもできないが、もし今後、自分自身が、かういふ場面に遭遇したとしたら、間違つてもしてはいけないことが、この記事には書かれてゐる。読んだ人は、このインタヴュー箇所を、しつかりと記憶に刻み込んでおくべきだ。

 母親は自分の子供2人を連れて逃げたが、その際に玄関のドアを開けたままにしていたため、火の手は階段を通じて瞬く間に拡大。住民らは避難階段を使って屋外へと避難した。ナイグロ消防総監によると、「階段が煙突の役割を果たしたことで、火災が上階に素早く広がり、人々が対処する時間がほとんどなかった」という。

 火災発生から約3分後には消防隊が現場に到着したが、一部の人々にとっては時すでに遅く、火災現場で5人が死亡。さらに地元病院に搬送された7人の死亡が確認された。

この箇所を念頭に置いて、他社の記事と読み比べれば、他社の記事がどれほど愚かであるかがわかる。
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# 『日本の長い戦後』を読みながらー9 vendredi 15 décembre 2017
前回は
前回は、「報道しない自由」と解釈を曲解、矮小化し、自らの仕事を自ら貶め、辱める朝日新聞の報道姿勢ーー傲慢さ、無責任さ、劣化を書いた。

日本の病巣
さうでありながら、なぜか日本のメディアは朝日新聞の報道姿勢に易々と従ふ。公共放送を名乗り、強制的に受信料を徴収するNHKも例外ではない。その不健全さがメディアを歪めてゐるのだが、それを正す報道は許されず、歪められた情報が正しい情報のごとく流布され蔓延してゐるのが日本のメディア全体の実情である。

20171215
   < 本の中につぎの言葉がある。心あれば恥ずかしくなるはずだ >

歴史修正主義、歴史修正主義者が非難の意味をもつて咎められるのは、さういふ背景がある。我こそは正義、正しいのだといふ狂信の報道姿勢で制作されたドキュメンタリーを安直に信じてしまふと間違ひを犯すことになる。現に朝日新聞が誤報として認め、取消した「従軍慰安婦」問題は、報道を信じてきた人々や研究者たちを裏切る結果になつた。

実際この誤報・取消しを知つたとき、個人的には「従軍慰安婦問題」はこれで片づき、なくなつた、と思つたものである。しかし現実は誤報・取消した後も、この問題は片づかず、未だ問題になつたままであり、理解できない疑問が残るばかりである。

トラウマの原因を求めて
『日本の長い戦後』では「やましい国」の記憶記事が目立つやうになつたのは一九九〇年以降だとされてゐる。では一九九〇年以前の「記憶」記事はどの記憶記事が多くを占めてゐたのか、調査すべきであるし、著者自身も知つておくべきである。さうすることで「長い戦後」のトラウマの原因を探る手がかりにもなり得る。

20171215
   < 引用される文章の意図を、間違つて引用しないやうに >

時代は過ぎ去ると、つぎに来る新しい人々から、新しい時代からも、流行遅れと疎まれ、忘れ去られるのが前の時代に属する古い時代の人のである。人々はその時代が産み出したその時代の独自性や特異性に留意などしない。しかし忘れ去れらた時代は、その時代の独自性や特異性によつて、その時代独特の雰囲気を醸し出してゐるのである。一九九〇年はバブルが終焉した年であると同時に、今日まで続く長いデフレ時代に突入した年でもある。

日本全体が、バブルで浮かれ、だれもがどんちゃん騒ぎしてゐた時代に書かれた記憶は「美しい国」の記憶なのか、「悲劇の国」の記憶なのか、はたまた「やましい国」の記憶なのか、三つのうちのどの記憶なのか。またその論調はどんなものだつたのか、知りたいものである。

さらに時代を長期的にみて、最初の記憶が書かれはじめたのはいつなのか。最初はどの記憶が書かれたのか。記憶は時代と密接な関係があるのではないか。かういふことを知ることもトラウマを知る手がかりになるはずである。






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# 『日本の長い戦後』を読みながらー8 jeudi 30 novembre 2017
前回
前回は報道批判とそれ信じてを鵜呑みにする怖さを書いた。日本の「いま」だけでなく、いつの世もさうだが、軽信は禁物。軽信は考へる放棄につながりかねない。人間が、考へることをやめたら、生物学的に人間に分類されるだけになつてしまふ。

更新されない歴史?
人間であるが人間でない人たちーー狂信者、どこまでも原理を信奉する人たちが人間の歴史をつくる。人間がいふ歴史なんて、飽きず、倦まず、果てることなく執拗に、繰り返し繰り返し熱心に、嘘に嘘を塗り重ねた戯言の羅列したもの、これが現在歴史といはれるものかもしれない。

歴史は、政治資料等の公開解禁とともに、書き換へられていくものである。しかし現在は、現行の歴史観に異を唱へると、ある種の人たちから、歴史修正主義者といふ烙印が押される。この偏狭な非難はなにを意味するのか。

20171130
   < どこまでも、高みを目指して >

無意味な言葉
『プラスチック・ワード』(藤原書店刊)といふ本がある。この本の帯には、プラスチック・ワードを「『発展』『コミュニケーション』『近代化』『情報』など、ブロックのように自由に組み合わせて、一見意味ありげな文を製造できる空虚なことば」と説明してゐる。

かつて日本人は、智慧として、一見意味ありげなきれいごとをいふ人や立て板に水を流すやうに流暢に喋る人や、雄弁に喋る人を「食はせ者」とみなして信用してゐなかつた。軽蔑し、どこか用心して接してゐた。「プラスチック・ワード」といふことばが出現する以前に、さういふものがあると理解したゐた。

朝日新聞が、戦後報道方針を転換した時の理由、御託がまさにそれである。これを読めばわかるやうに、つまり朝日新聞はこの程度の新聞社なのである。しかも嗤はれるのを承知してのことなのだらうが、御丁寧にも、わざわざ、それを告げてゐるのである。

20171130
   < 太陽を浴びて、葉表から見て >

朝日新聞の「御託」はつぎの通りである。

ーーー『朝日新聞』は、平和をもって戦争の罪を償うのだ、それこそが道徳的自己認識を修復し、世界の敬意を勝ち得るための道であると述べてきた。この反戦の語りの根底には、自社が戦争中に翼賛報道に協力し、読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省がある。自らの戦争責任を認識しているがために、国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難の調子は特に厳しいーーー

これは以前書いた通り、単なる看板のすげ替へで、読者を戦争へと導いた翼賛報道の反省でも戦争責任の認識でもなんでもない。

口先だけの反省
高島俊男のこのシリーズの最終巻になるといふ『お言葉ですが 別巻❼』を読んでゐたら、戦前から戦後、映画批評で名を馳せたといふ朝日新聞の津村秀夫のことを書いた文章ーー「戦争中の映画」p.87ーーに出会した。そこを読むと朝日新聞社の「読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省」も「戦争責任の認識」といふものも体のよい口からの出任せの嘘八百だといふことが、わかりすぎるほど、よくわかる。

なによりも「この反戦の語り」がきれいごとの意味のないプラスチック・ワードの羅列に過ぎないのがよくわかる。それは、並べられたことばの具体性を尋ねれば、意味不明の曖昧性が際だつばかりで、どこにも具体的な意味内容はみえてこないことからわかる。

20171130
   < 太陽を浴びて、葉裏から見て >

敢へてひとつだけ例を挙げるとするならば「道徳的自己認識」とは一体なにを意味するのか。哲学にかういふことばが存在するのか、日本語は造語が簡単であるからといつて、疑つた究極に自己を発見したデカルトを馬鹿にするやうな意味のない言葉を作るのは愚かである。

悲惨以上に哀れ!
また日本の報道全般にいへることだが、ジャーナリスムとしての報道の範囲を超へて、つまり事実報道の範囲を超へて、公平中立をうたひながら、おこがましくも、権限もないのに、意図的に、終始一貫して、読者をある一方向に導かうとする報道姿勢である。ここには読者の見地や考へを広げるための公平中立な報道などどこにもない。

それは今現在も変はりないし、いや逆に、報道姿勢は以前にも増して、「報道しない自由」などと愚かな口実を真顔で言い募つて、偏向的、断定的、命令的な独りよがりな報道に終始してゐる。自らの首を絞め、自らを辱めてゐることさへも気づかない、現実を直視できない、哀れな愚かさだけが目立つ日本の報道である。

20171130
   < 見極めた果ての奥に出てくるものは? >






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# 『日本の長い戦後』を読みながらー7 dimanche 19 novembre 2017
前回、前々回
前回は、ジャーナリスムの本質を全く持合はせてゐない、日本のジャーナリスム企業と、これまたジャーナリズム精神を全く持合はせてゐない日本のジャーナリストたち、これらが牛耳つて、堕落し、落ちるところまで落ちて、手の施しやうのなくなつてゐる日本のジャーナリスムに、哀れみを覚え、久しく忘れてゐた「寸鉄」を更新した。

前々回は多くの平均的な日本人のだれもが共有してゐない「戦争の記憶」について述べた。

これは学術書ではない
ところで現在の平均的日本人が記憶してゐない「戦争の記憶」は、だれによつて記憶されてゐるのか。またさうでありながら、だれによつて問題として語られるのか、といふ側面も考察する必要がある。しかしこの本では、その面への言及はない。そもそも変形B6版の小型二百頁の本から、さういふことは期待できないであらう。

読んでゐて気がつくと、この本は、学術書として研究がなされてゐないのが見えてくる。ではこの本はといへば、これまで日本で報道されてきた事象を整理整頓したといふのがこの本である。整理整頓しただけで、考察が欠落してゐるのだから、この本には学術書としての発見は期待できない。

たとへば、目の前に考察の対象が出現しながら、それに着目しないで済ましてしまふ。なぜさうしてしまふのか不思議でならない。学者として劣るのか。海外にゐるのだから、外からの目で、日本の事象を、第三者的に、距離を置いて、客観的に、観察できるのではないかと考へるのだが、さういふ期待は裏切られる。

考察に堪へない理窟
「敗北感の共有とその位置づけ」の第三章の日本の報道姿勢に言及した「新聞社説に見る戦争責任と被害の言説」に取上げられた報道姿勢、ここを読んでも、考へるべき重要な事柄が、欠落してゐるのがわかる。

日本の報道姿勢は朝日新聞の以下の言説に代表され、貫通され、死守されてゐる。

ーーー『朝日新聞』は、平和をもって戦争の罪を償うのだ、それこそが道徳的自己認識を修復し、世界の敬意を勝ち得るための道であると述べてきた。この反戦の語りの根底には、自社が戦争中に翼賛報道に協力し、読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省がある。自らの戦争責任を認識しているがために、国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難の調子は特に厳しいーーー

一読すると理想的言説のやうに思はれる。しかし言葉を一つひとつを吟味、考究するとどうなるのか。いや、それ以前にまずこの言説を、大局的立場にたつて、納得できる考へ方なのかどうか、と考察する必要に迫られるのではないか。

20171119
   < 悪徳商法・・虚僞を報道し、あげく受信料金まで巻き上げる >

5W1Hの「なぜ」と「どのやうにして」さうなつてしまつたかを考察せず、安直に、対極に立場を移すのは、つまり翼賛報道から反権力へと極論に走り過ぎる例ではないか。観察すれば、看板をすげ替へただけで、実は、この言説は表裏同一、ではないか、といふ疑念が生まれても変ではない。もし同一なら、戦後七十年以上を経て、おなじ過ちを犯し続けてゐる現実が浮上してくる。短絡的な反省が、反省にもなつてゐない現実が見える。

闊歩する嘘ニュース
昨今アメリカ大統領が言ひはじめたフィエイクニュースがさまざまに言はれてゐる。日本でも、YouTube など見ればわかるやうに、同様のニュースが問題にされてゐる。新聞報道を信じない世代は、短文投稿サイトや YouTubu などの動画の手段を通じて、自らの疑問を発信してゐる現状が見えてくる。

しかし、それでも既存の報道を信じる人たちの層が厚いやうで、とくに団塊の世代の層が、ニュースの現実、真実を知らないまま、報道される偏向、フェイクニュースを信じてゐる。さういふ過去の自らの脳に組込まれた思考回路を更新をできない人々に向けて、都合よく欺き続けるために「報道しない自由」といふ詭弁を弄んで、事実、真実を意図的に隠蔽してゐるジャーナリスム世界の現実がある。

弱者は虫けら
既存の大手報道機関は、事実を疎かにして、故意に意図的に現実を読み違へ、このところの衆議院議員の足立議員の捏造追究には返答もせず、ただ言質を挙げつらひ、相手を攻撃するだけの朝日新聞の報道姿勢に殉じてゐるやうに、偏向報道の現状に準じてゐる。

良心、見識、慧眼のいづれをも持合はせてゐない、かつてのオウム真理教の世界を思ひ出させるーー学歴だけは高いが、操り人形の如何ともしがたかつた世界ーージャーナリスム世界を見せつけてゐるのが日本の現在である。

時代背景の無視
学術書なら、日本の現実も知る必要があるし、その現実を考察する必要も生じて当然である。加害責任の記事が、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、多くなつた、と指摘してしてをきながら、「なぜ」さうなつたのかは追究、究明、言及しない。学術書なら、この「なぜ」を明確にしなければ意味がない。

実際とは異なる色のついた根拠のない報道を寄せ集めてみても、そこから、意味も生まれなければ、真実も見えてこない。その最たるものは朝日新聞の従軍慰安婦・吉田調書誤報陳謝会見であるが、さういふ報道から見えてくるのはジャーナリスムの傲慢不遜さとその世界に従事する人たちの異様さ、歪(ひづ)み、歪(ゆが)みの世界がある。

それはどこから来るのか。いはづもがなの闇雲な「国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難」の報道姿勢からである。反省の独りよがりで、またしても国民を欺いてゐる「翼賛報道」、つまり「フェイクニュース」の現実が出現してゐる昨今である。




| comments(0) | trackbacks(0) | 18:06 | category: ひと言 |
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