蛮茶菴

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# 紅茶は受皿に移して飲むもの?? jeudi 23 juillet 2015

思ひ出されたもの

マクラウドの短篇集、最後のページまできてしまつたので、こんどは、かれの長篇小説『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を讀みはじめました。さうして讀んでゐたら、つぎの文章がふと目にとまりました。さうしてつぎの瞬間、小野二郎の本が思ひ出されました。


目に止まつた文章はかうです。


私と妹は、アレグザンダーがカップのなかの熱いお茶を受け皿に入れて冷まし、その受け皿から飲んだのを見て笑ったのだった。

my sister and I had laughed at him for spilling his tea into his saucer to cool it before drinking it from the same saucer.


20150723


また思ひ出された小野二郎の本は『紅茶を受け皿で』(晶文社)でした。


この場面がフィクションではなく事實の描写だとしたら、著者が生まれた年にこの場面を目撃した年齢を足すと、わざわざイギリスの昔にさかのぼらなくても、一九四〇年初頭にも、まだ實際にかういふ飲み方をする人たちがゐたのだとわかります。


小野二郎の『紅茶を受け皿で』を讀んだときは、現在の飲み方と隔たりがありすぎて、無文字社会の存在が信じられなかつたのとおなじやうに、事實だと認めるのが難しかつたのを覚えてゐます。


ケルト文明も然りです。研究者にとつては研究対象で、過去にあつた膨大なものかもしれませんが、それをいま現在生きてゐる人々にとつては、現實そのもの、つまり日常です。だからこの数行の描写で済むのがわかります。


20150723


勢力の暴力性と経済の侵略性

勢力を持つ文明のなかで生きてゆくには、勢力を持つ文明の言語、つまり英語を受け入れなければならない様子も素描されてゐます。なぜその言語が力をもち得るのかもうかがひ知ることができます。と同時にマイノリティーな言語、ゲール語がなぜ駆逐されてゆくのかもうかがひ知ることができます。


紅茶の作法にしてもおなじことがいへるのでせう。必要だつたものが、駆逐されてゆく様子も言語の衰退に重なるものがあるとみることができます。しかしこれはあくまでも個人的な受け取り方です。マクラウドの作品には、讀めばわかるでせうが、理窟や小利口な解釈はどこにもありません。あるのはただのエピソードだけです。さういふ意味では、日本でよく見かける進歩的文化人とやらのどこか高慢ちきで、人を蔑視しながらも人に媚を賣る僞善性は微塵もありません。


20150723

   < ケルト模様を下地にして >


逆に、マクラウドの作品は、さういふものを忌避し、拒んでゐる氣配さへ感じられます。劣悪であれば、あるだけいつそう誇りが劣悪を凌駕する。さういふ素描がつづくやうに思へます。おそらく人間として、精神的に仰ぎ見るやうな人だつたのではないかと。俗にいふ人間としてスケールが違ふのでせう。


マクラウドの作品は、人間を描いた作品として生命力をもち續けるでせう。メディアに持ち上げられて、好い氣になつて騒いでゐるノーベル賞作家の書いたものなど足元にも及ばない生命力をもつでせう。人間正義面した瞬間、堕落の坂を転げ落ちます。さういふ偉いといはれる人を、この日本では、悲しいかな、たくさん見かけます。





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コメント
もしかりに「閉じた社会」と「開いた社会」があるとしたなら日本の社会は閉じてゐるのではないでせうか。報道するのに「角度」を持ち出した新聞社がありましたが、律するのではなく、それをあたかも特権のごとく通用させるのですから。またそれを指摘すると裁判に訴へると恫喝するののですから。さらにそれを認め許すのが日本の社会です。
かういふ理解に苦しむ権力は、団体を構成してゐる組織では、どこにでもあるのが日本の社会です。
自由とか平等とかいふのはすべて言葉の遊びにすぎないのが日本だと思ひます。
| 蛮茶菴 | 2015/07/26 5:44 PM |

エピソードの列記と言えばオンだーチェもそうでしょうか。
つなぎめをなめらかにするために作家の思想とか解釈なるもので埋めていくのが従来の普通の作品なのでしょうね。
現実の息吹・威力というものはしょせんそういった言葉上手ではとても伝えきれないものだと思います。
きょうのブログもとてもこころに響くものでした。
こういうことをかつて語ってくれた"先生"なるものは悲しいかな自分には存在しません。
きびしい限りのブログですが実はこの上ない優しさに満ちている言葉に感謝しています。
虚栄・虚名で有頂天の"ちからあるひとたち"のはびこっている社会なんですね。これは洋の東西を問わないんでしょうか。
| Genkikun | 2015/07/23 9:32 PM |

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