蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 「自分のことは自分で」 自分を喪失する前に mardi 30 avril 2019
下校時間になると日々子供の声で、「いつも見守つてくださり、ありがとうございます。今日もよろしくお願ひします」と町内放送が流れる。だれかが作文した文字列、しかしそこには自助努力の言葉はない。この他力本願な内容の放送は、町内に限らず、市内、県内、ひよつとしたら日本全国一斉に流れてゐるのかもしれない。

放送でさう宣言して、守られてゐる、保護されてゐると信じて帰る児童たち。さういふ子供たちの列に遭遇することがある。子供は元来気ままである。元気なのはいいが、見守りに立つたヴォランティアも見てゐるだけで、注意をしない。だから、列はあつてもなきの如し、ここまで許容されるのか、と思ふ場面を散見する。

それでなくても放送のお墨付きがあり、町内のヴォランティアが出て、下校の通学路の辻に立つたり、列についたりする。だから必然的に子供たちは守られて当然と、注意しなくなる。これでは放送もヴォランティアも害にこそなれ益にはならない。

なにかを身につけるためには、飽きることのない日々の繰返し、ドリルが必要だ。子供が精神的に自律するにも、同様のことが必要だ。下校時の子供たちを見てゐて、それが欠落してゐることが気にかかる。気づいてゐるのか、気づいてゐないのか、さうさせてゐる大人にも大切ななにかが欠落してゐるのが感じられる。

20190430
   < 道具に使はれるのか、道具を使ひこなすのか >

しかし、この問題を提起したとしても、理解されなかつたり、厄介がられたり、仮に賛同を得ても、わざわざそこまでして波風たてる必要はないと。結局は言はれた義務を無難に果たせばいいういふことになり、ことはなおざりにされる結論に至る。

その昔「自分のことは自分で」と言はれて育てられたものである。わが身を守る注意だけに限らず、なにごとにも共通して言へる。それが欠落してしまつて久しい。重要なことなのだけど、だれもなにも言はないし、問題にしもしないし、気づきもしないやうである。


この「自分のことは自分で」といふ観点で、いまの日本の現実を見て観ると問題が山積してゐるのがわかる。労働人口が足りないからといつて、問題の本質を見極めもせず、単純な足し算引き算んで数字の帳尻を合はせてゐる。それも低賃金で。それでは問題の解決にならない。

「自分のことは自分で」やれば外国人労働者、つまり移民は必要なくなる。さらに自分の劣化に歯止めもかかるといふ期待もできる。本来自分の問題である問題を棚上げにして、別なところに解決を求めても、結果は目先の統計の誤魔化しでしかなく、一向に本質の解決になつていかない。


20190430
   < フェイク・ニュースとはこのやうなもの >

介護職の給与を一つ例に挙げるだけでもわかる。生活が成り立たないほど給与が低い。また国家試験を受けて有資格でありながら、その職種の給与が低くて、生活ができない。だからなり手がない。さういふ見過ごせない問題を見過ごして、海外から働き手を求める。

数字合はせで、このまま外国人労働者受け入れて、移民政策を推進すれば、日本人である自分の劣化がいま以上に進む。日本がダメになるのが、この時点で既に明らかである。

かつては市井に知恵といふものがあつてその知恵が生きてゐた。いかに有識者といつても市井の知恵に反したことをすれば、世間から相手にされなかつた健全さがあつたが、いつからか逆転してしまつた。いまは小賢しい屁理窟が幅を利かす時代である。

しかし、小賢しさが露見して、だれが見てもわかるやうになつてから、対応してゐては手遅れで、手の施しやうがなくなる。至急対策する必要がある。放置しておくと下校時の児童同様に、どうしやうもなくなつてしまつた自分をそこに観ることなる。

かつて集団就職の若年労働者を金の卵といつてもて囃した時代があつた。低賃金で若い労働力が安易に手に入つた時代である。その時代が終はると、安い労働力を求めて、触手が発展途上国に動いた。経営のためといつて、それはいまでも続いてゐる。

20190430
   < 信頼できるニュースとはこのやうなもの >

その結果が回り回つて外国人労働者、さうしてその定住化、つまり移民国家化、文化喪失になりかねない。目先の金勘定に捉はれずに、餘分に金がかかつてもよい、自分が自分でゐるために、文化が文化であるために、せめて「自分のことは自分で」やらうよ。さうすれば肉体も精神も健全でゐられる。おまけに子孫のためにも二流国三流国に転落させなくて済む。

ところでもう一つ覚えておかなければいけないことがある。外国人労働者受け入れを、一見、合法的に決めた有識者の存在である。一見といふのは、ちよつと見た目は合法的といふことである。これからもわかるやうに、裏を返せば非合法なのである。

その非合法をそのまま見過ごしては民主主義が破壊されてしまふ。民主主義が破壊されないやうに、だれが金を懐に入れるか見極めなければいけない。さうしてその人物を許してはいけない。民主主義を堅持するためにも金は必要である。踏ん張るといふのはさういふことだ。

日本は形式だけは民主主義だが、その実は非民主主義である。報道しない自由、さう言はれる情報を見れば明らかである。極論だが、ニュースはすべて嘘、フェイクであることからもわかる。考へる素材、情報が嘘、フェイクなのだから、まともな思考はできない。さうさせてゐるのが日本のメディアである。







| comments(0) | trackbacks(0) | 06:06 | category: ひとり言 |
# よく見れば lundi 1er avril 2019
畑に行くとナズナが花をつけてゐる。

畑に限らず、畦の雑草の草花も胎動開始で、芽吹きが其処彼処、至る所にある。

冬の間、休息した畑、そこにすでに雑草が芽吹いてゐる。

雑草に混じつてナズナも花をつけてゐる。

畝づくりをはじめると、それらが邪魔になる。

ナズナを抜きながら、芭蕉の句を思ひだす。

その句を巡つて、待てよ、と考へる。

20190401

芭蕉が目にした垣根はどんな垣根だつたのだらう、と。

今現在、畑でみるナズナは群生してゐる。

よく見なくても、この畑ではナズナは無断で目に飛び込んで来る。

それをわざわざ「よく見れば」と芭蕉は断るのだから、腑に落ちないものがある。

それにしてもこの言ひがかり、揚げ足取りの難癖、草抜きに疲れた腹いせのせいなのだらうか?










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# リレーアタック手法で盗まれる jeudi 31 janvier 2019
車にスマートキー機能がついてゐると、鍵さへ持つてゐれば、鍵を操作することなく、車のドアも開けられるし、エンジンもかけられる。文句なしの機能である。

しかし、この機能が悪用されて、車が盗まれる事件がおきてゐる。電波が一致さへすれば、その時点で所有者に関係なく自分の車になる。だから数分もかからない。


20190131
   < 昔は、こんな程度でなにごともなく済んでゐた >

いまは車だけだが、やがて家もさうなり、空巣にも利用されるだらう。在宅不在に関係なく、いつでも自由自在に泥棒さんの出入りが可能になる。さういふ時はすぐ目の前に来てゐる。

どう対策したらいい?対策を講じないと自己責任になる?心配は尽きない。

便利になり、負担が減り、楽になつたのはいいけれど、新たな心配のタネがもう芽吹きはじめてゐる。



追伸
かういふ習慣はないのだけど、在宅時は常にフック形式の原始的な内鍵を施錠しなくてはならない。さうしてはじめてリレーアタックの空き巣を防げるやうになる。アナログに頼らなければならないとは、なんとも皮肉な時代錯誤なことだ。(20190202)






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# 思ひがけない発見 jeudi 20 décembre 2018
日本の古典といえへば,、百人一首程度しか知らない。かつて、暮れのこの時期、家から駅まで、徒歩十五分程度の道のりを、まだどのくらい、百人一首を覚えてゐるだらうかと、あ行から順に、口ずさみながら歩いたものである。
さういふことがあつて、百人一首の本、たとへば『百人一首のなぞ』シリーズともいへる何冊かの本を読んだ覚えがある。しかしどの本を読んでも「なぞ」が消えたわけではない。どの本も「なぞ」がそのまま残る本であつた。

最近偶然にも、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』といふ本に巡り合つた。これまで読んだモノと異なり、たいへん興味深かつた。なにが興味深いか、といつて、解釈の文脈が、従来のものとは違つたところが刺戟されるところだつた。

特に三番歌、天才歌人柿本人麻呂の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながしく夜をひとりかも寝む」の読取り方が秀逸だつた。

なにが秀逸かといつて、従来の言葉遊び的な解釈とは異なり、天才が、詩歌を苦吟する姿を読み解いてゐて、目を見張るものがあつた。

この時平行して読んでゐた本が、なぜか井筒俊彦の『読むと書く』であつた。この本には、本の題名となつた「読むと書く」といふ短文が納められてゐる。その短い文章には、おおよそ次のやうなことが書かかれてある。

20181220
   < どこかで見た写真の跡をなぞるだけの陳腐な写真 >

ロラン・バルトは「身体」で書くといふ。書く行爲において、「身体」からじかに滲み出してくるコトバ、それだけが本物のコトバだ、といふ。無論、大多数の書き手ーーー専門家の作家でもーーーは「身体」で書かないで「頭」で書く。そんなコトバはいわゆる「紋切り型(ステレオタイプ)」であり、生命のない共同言語、真似ごととしての言語使用にすぎない。

ここは、朝日新聞などの、三流の決まりきつた理窟を並べただけの似非思考にすらならない社説、つまり絵に描いた餅を、どうだ上手だらう、と開陳して見せ、本物の餅だから喰へ!喰へ!と強要する社説を連想してもらへれば理解しやすいだらう。

「身体」で書くことのできない贋物の書き手たちの特徴は、書き手の主体性が固定化して、ほとんど実体的に意識されてゐること。つまり、書き手としての我(エゴ)が、コトバの外に存立してゐることだ。コトバから遊離して、その外に立つ我(エゴ)が、まるで道具でも使ふやうにコトバを使ふ。書く主体が確立してゐるのに対応して、書かれる客体も確立してゐる、と書いてゐる。

では、ほんとうの書き手はといふと、「書く」現象において、主体も客体も実存しない。主体の側では、既に完全な自己解体が起こつてゐて、書き手としての自己(「我」)が解体しきつたところで、深い身体的感覚が、その全エネルギーをあげてコトバをつむぎだす。ここではそつくりそのまま「コトバの脈搏」と化し、唯一の、真正な書記行爲となつてゐる、といふのだ。

まさにこの書紀行爲が、柿本人麻呂が「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」に歌ひ込んだ心境そのものではないか、と思つた次第である。

さらに加えて、科学者の武田邦彦が、「科学の研究といふものは、真つ暗闇を歩いてゐるのと同じだ」といつたことにも通じる、さう考へてゐる。




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# 精神とは、生きるとは mercredi 25 avril 2018
四月二四日『虎ノ門ニュース』での我那覇真子さんのーー精神とは?生きるとは?ーーこの発言と発言後のスタジオを通りから窓ガラス越しに傾聴してゐる若い聴視者の自然発生した拍手。



ぜひ、精神を生かすか殺すかは、いつの時でも、生きてゐるわたしたちに関はつてくると述べてゐる箇所まで、再生ボタンを押してきいてもらひたい。




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# 秋の朝光のなかで vendredi 3 novembre 2017
けさの題名は辻邦生( 1925 - 1999 )の作品『秋の朝光のなかで』と同名になつてしまつたが、さう想はせる朝だつた。

20171103

昨夜済ませてをいた洗濯物を干しにヴェランダに出たら、道路が濡れてゐるのに気がついた。天気予報では深夜から明け方まで小雨予報になつてゐたのを思ひ出した。竿に洗濯物を干してゐたら、空の雲が目に入つた。

20171103

ゴミを捨てて帰る途中、知人の家の露を輝かせてゐる花が目に止まつた。

20171103

20171103

やがて太陽が高くなり、草花に届き、露草が光を帯びて輝きだした。

20171103

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影も生まれ、花に変化をもたらした。まさに『秋の朝光のなかで』である。朝の、つい見逃してしまふ、数分の出来事である。

20171103








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# 『日本の長い戦後』を読みながらー2 dimanche 24 septembre 2017
従軍慰安婦
おそらくこの本は、個人的な偶感などではなく、学術書として、準備して書かれたものだと推察できる。だが、それにしては、得心のいかない言葉が、断りもなく、無神経に、使用されてゐる。

二〇一四年八月五日、紙面上で従軍慰安婦の虚僞訂正記事を発表し、同年九月二七日にも、テレビで多くの人に知らせるために、会見の場を設け、朝日新聞社社長や取締役編集担当者らが慰安婦問題で虚僞を報道したと謝罪した。

二〇一四年九月二七日「しんぶん赤旗」でも、八月五日の朝日新聞の記事を検証し、それに準じて信憑性がなかつたとして、過去三回( 1992 - 1993 )にわたつて掲載した記事を取消し、謝罪するといふ記事を掲載した。

20170924
   < 焦点があつてゐないのは愛嬌として >

つまり三流なのか
しかし、『日本の長い戦後』では、さういふ状況であるにもかかはらず「従軍慰安婦」といふ単語が用ゐられてゐる。著者は日本人で、現在も生存してゐるやうだ。さらに、この本を書くにあたり日本で、高校などで聴取り調査もしてゐるやうだ。

この本の翻訳者も、朝日新聞の謝罪会見は見知つてるゐると想像できる。仕事に関はる情報なのだから当然と見做しても問題ないだらう。さういふ事実を知りながら、学術書といふものを翻訳するにあたり、虚僞として取消し訂正された「従軍慰安婦」を訳語に使用する。

この訳語について、著者と訳者で、聯絡をとり問題にしなかつたのだらうか。この本が発行されたのは二〇一七年七月十八日。謝罪会見から三年が經過してゐる。だのになぜ「従軍慰安婦」なる用語がこの本で使用されてゐるのか。

学者、翻訳者として、なにも感じないのだらうか。





| comments(0) | trackbacks(0) | 08:28 | category: ひとり言 |
# 雄弁な語り手 mercredi 17 aout 2016
身近で連想できる夏の風物といへば、それぞれ異なるでせうが、これもその一つであることは間違ひありません。

20160817

暦のうへで立秋が過ぎると朝の光にもどこか秋の気配が忍び込んできます。

20160817

さうでありながら真昼の炎天下の光はまだまだ夏そのものを主張してやみません。

20160817

しかしその光の下でも、植物は、着実に、秋を準備してゐます。




| comments(0) | trackbacks(0) | 22:20 | category: ひとり言 |
# 本を読む難しさ mercredi 13 juillet 2016
たかが本を読むだけのことですが、このところ、読むことが難しい、と思はれて仕方がありません。集中したつもりで本を読んでゐるのですが、その集中とは裏腹に、なにも理解せず、ただ印刷された文字の上面だけを追つかけてゐるのではないか、と自分を疑ふことがあります。

多くの読書人の例に漏れず、この能無しも、読書人を真似て、重要と思はれる箇所に、付箋紙を貼り付けたり、ときには、鉛筆で、線を引いたりして本を読みますが、さてどれだけ理解してゐるのか。自分では、密かに自負して、理解したつもりになつてゐますが、本当のところはどうなのでせう。とんでもない勘違ひや表層的な理解だけで、さらに最も重要なところに気がつかず、理解したつもりになつてゐるのではないか、といふ思ひにとらはれることがあります。

20160713

今朝の読書でも、この句ーー石も木も眼(まなこ)にひかるあつさかな(向井去来)ーーを読んで愕然とさせられました。繰り返しなん回か読んでゐる詞華集のなかの一句ですが、これまでこの句に気づかずに、やり過ごしてゐたのです。

この時期、夏の日の晴天の光景そのものをうたつたものです。夏が好きで、炎天下を長距離歩くことさへ厭はない、この自分ですが、かういふ句を気づきもしないで、見逃し、これまで、読んだつもりになつて、のんべんだらりと頁を繰つてゐたのです。

2-16-713

「すべての命あるものは唯一無二である。」この一文はワシーリー・グロスマンの『人生と運命』で読んだものです。事実を述べただけの文章ですが、この事実にも、どれだけ立ち止まり、注意を拂つたでせうか。いや、注意どころではない、この事実に気づきもせず、ただ字を追ひかけてゐただけなのが実際です。

本を読んでも、かういふ読み方しか、このボンクラはできません。さうしてあるとき、かういふ自分の散漫な読み方を知つて、愕然としてしまふのです。落ち込みます。落ち込んでどうしやうもなくなり、もう本を読むのはやめた、俺はダメだ、と極論に走ります。

2-16-713

しかし、どうしてだかわかりませんが、時が経つと、また懲りもせず本を開いてゐるこのボンクラがゐるのです。なにごとも一見簡単そうですが、しかし、当事者になつて、実際やてみると簡単なものなんて、なにもないことがわかります。読むこともさうです。それがほんとうのことなのでせう。

いまのところ、いい意味での健忘症が幸ひして読書は続けてゐます。読書で、コペルニクス的に、なにかが激変するわけではありませんが、やはり変化をもたらしてくれますし、知る喜びも、まだ、幸ひに、萎縮もしなければ、硬直化もせず、干からびもせずに健在のやうです。

ときおり、自分の能力のなさが嫌になりますが、それはそれとして、これからも、おおらかに、気楽に、読書を楽しみたいと思ひます。読書で知らなかつたことが見えてくることもあります。

補:去来の句を詠むとブログ「かめとらの奄美生活」のこちらの写真を思ひ出します。よかつたらクリックしてみてください。まさにそのものだと思ひます。





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# わが家の庭の木に巣を作つた鳩のその後 dimanche 26 juin 2016
六月十日 卵を抱く親鳩
20160626

20160626

六月十五日 まだ卵を抱いてゐる様子
20160626

六月十七日 孵化した模様
20160626

20160626

六月二五日 雛の目が覗いてゐる
20160626

六月二六日 成長のスピードを感じさせる
20160626

20160626





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