蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 年のはじめの一冊『須賀敦子の手紙』 dimanche 1er janvier 2017
図書館の資料を検索してゐて偶然見つけた『須賀敦子の手紙』、貸出し予約手続き処理に進んだが既に予約者がゐて、貸出し順が巡つてくるのは数ヶ月先になると判断し、出版年も二〇一六年五月だつたことから、近くの書店の在庫状況を調べたらあつたので、こちらで購入した。

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書店の書架に、なかがみられないやうに、透明紙で包まれて、いかにも仰々しさうに、置いてあつた『須賀敦子の手紙』。さうはいつても、ふつうは一冊はなかが見えるやうにしてあるものだけど、その一冊もない。この自分は須賀敦子のいい読者かどうかはわからないが、『ミラノ霧の風景』からの読者で、新刊が出版されるたびに、新著を手にし、読んできたこともあつて、本の外観をみ、見つけたといふことだけで購入した。

無頓着な購入の仕方だと思ふかもしれないが、最近は本、とくにいかにも売れそうもない、また買はれさうもない本はすぐ本屋から消えてしまふ。だから、このときと思つたときに購入しておかないと、二度と手にすることができなくなる。

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この本を手に取ればわかるが、この本は須賀敦子の書き慣れた読みやすい肉筆文字を楽しめる本だ。と同時にフォントがいかに味気ないかを示してくれる格好の形になつた本だ、とも言へる。

手書き文字は、さまざまで、上手下手以前に、親しみやすさを感じさせるもの、反対にどうしても好きになれないものに分かれる。達筆だけど、達筆を鼻にかけところが文字に現れ、上手だけど読みにくくて辟易するものもあるし、かといへば、下手だけど、書き慣れてゐて、下手は下手なりに、どこか親しみやすさを感じさせる手書き文字もある。

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この『須賀敦子の手紙』は、もう一方では久家靖秀の写真集で、ハガキや封書の全部で五十五通の手紙を写真に納めたものである。写真を眺めてゐると、つい拾ひ読みしてゐる自分に気づく。

なかではつぎのやうな文章に目が止まつたりしてゐる。「勉強というものは、やればやるほど わからないところが山ほど出てくるので 全く困ったことだと思いながら どうにか一日一日をすごしています」

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また PAR AVION 航空郵便といふハガキや封筒に押されたハンコをみて、水村美苗の『日本語が亡びるとき』を思ひ出したりした。PAR AVION が次第に BY AIR MAIL にとつて代はれる例を持ち出して、アメリカの影響力を説明する箇所である。

なかにはわざわざ赤インクで書かれた、イノウエ ヤスシは je ne l’aime pas. tellement. と書いたハガキも目に止まつた。だからといつて、この自分は、井上靖の小説はこれまで一行も読んだことがない。実をいふと、この一言で、読まなくてもよい理由をもらつた気持になつたのだ。





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# モチモチする餃子の皮の作り方 dimanche 9 octobre 2016
時間が許すなら餃子の皮を自分の手で作つてみる。勘違ひが偶然生んだ餃子の皮のモチモチ感。うまい餃子を食べてみたかつたら、一度はやつてみる価値がある。

餃子のうまさは皮にある。一度、市販の皮と自分が作った皮で、おなじ具を包んで食べ比べてみるとよい。うまさは歴然としてゐる。少しの手間でこれだけの相違がでる。それを知らないのは、ほんとうの皮のうまい味を知らないからだ。知らないといふことは損であり、可哀想でもあり、哀れでもある。

なぜなら出来合ひを食べさせられ、それがうまいと教へ込まれ、それを信じるやうな生かされ方をしてゐて、主体性なるものがどこにもないからだ。食べ物の味さへもコントロールされて生かされてゐることに気づかないのだ。

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自分の舌でおいしさを判断できない。これは哀れな生き物以外のなにものでもない。なぜなら、舌さへも、奴隷になつてゐるのだから、宣伝が果たす効果は絶大だ。洗脳は脳味噌のことだと思ひがちだが、さういふことはない、人間まるごと全てが洗脳の対象だ。

ところで餃子の皮の作り方。強力粉150gに薄力粉50g。いくつかのレシピを知ると強力粉と薄力粉の分量が逆のものもある。おなじ分量の湯を注いでも粉の分量が違ふと粘り度も違つて、強力粉が多い場合は固く、薄力粉が多い場合は柔らかく仕上がる。

モチモチ感を出すには湯の注ぎ方を数回に分けるだけでよい。皮を作るのに手で捏ねる必要はない。時間の短縮と楽をするためにフードプロセッサーを、馬力の強いCUISINARTのフードプロセッサーを使用すればよい。他のメイカーのものだとモーターの力が弱く、粉に粘りが出てくるとモーターが止まつてしまふ。

20161009

CUISINARTのフードプロセッサーの利点がさらにもう一つ、小麦粉を撹拌しながら、熱湯を注ぐことができることだ。モーターが動いてゐる状態で湯が注げる。これはCUISINARTのある機種にしかないが、この作りが有効に利用できる。

これは、貼付した写真を見ればわかるが、蓋がさう作られてゐるからだ。他のメイカーのものでは、湯を注ぐために、いちいち蓋を開けなければならない。蓋を押すか押さないかで電源が入るやうになつてゐて、蓋を開ければその度に電源が切れ、モーターが止まり、撹拌も中断することになる。さうなると湯の馴染みも全体に満遍なくいかなくなつてしまふ。

湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづけ、湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづける。これを六回繰り返す。以前は熱いことを最優先させてゐたので、湯を一気に注いでゐたのだが、あるとき湯の分量を勘違ひして、上記のやうに分割した湯の注ぎ方をしたらモチモチ感のある皮ができたのだ。

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   < 焼き師いはく、大きい場合は湯ではなく水を、と >

おそらく空き時間を設けて、数回に分けて湯を注ぐことで、粉全体に湯が満遍なく行き渡るのだらう。さうした馴染みが粉のモチモチ感につながるのだと推測できる。

捏ねた粉を寝かせたら、つぎは粉をドーナツ型にし、棒状になつたものを二等分に切り分け、二等分したものを並べて、さらに二等分に切り分け四等分にし、全部で十六等分に切り分ける。三十二等分に切り分け小さい餃子にすることもできるが、食べ応へからして、個人的だが、十六等分したもののほうがよい。

切り分けたらつぎは掌サイズの麺棒で伸ばす。伸ばし方によつて皮の大きさも変はる。ただ闇雲に伸ばさずに、皮の厚みの食感を楽しめるやうに考へながら作るのも勘所だ。とうぜん皮の厚みも餃子のうまさを左右する。

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   < 一度焦げ目をつけると・・・ >

パナソニックのフードプロセッサーはもつぱらキャベツを切るのに使用する。プロセッサーで粗めに刻んだキャベツは、塩を振つて、時間を置いてから、手で、水気を絞り、ひき肉と混ぜ合はせる。

レシピは基本的に『粉からはじめレシピ』(オレンジペ−ジ)の「焼き餃子のレシピ」を参照してゐるので、詳細はそちらを参照してもらふと幸ひである。





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# 木洩れ陽 vendredi 7 octobre 2016
久しぶりの秋晴れ。黄葉前の青葉に射す光の戯れに魅入られて写真を撮つてゐたら浮上した言葉、木洩れ陽。久しく、生活がこの言葉を必要としてゐなかつたやうです。

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人の記憶は不思議で、一度覚えたことは完全に消し去ることはできないやうです。なにかを契機にして、どこかからか、忘れてゐたものが意識の表層に浮上してきます。






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# もう金木犀の季節 mercredi 28 septembre 2016
毎年の、いつものことで、進歩といふものがまつたく窺へないのが、この自分。正月を迎へると、決まつて、一年を指折り数へて、その先の長さに嘆息したり、うんざりしたりする。しかし反面、安堵したりする。

しかし、蝉とおなじで、夏が過ぎるころになると、にはかに、残りの月を数へはじめて、焦りだす始末。これも毎年まさに、恒例の心の動き。

通りを歩くといい香りがし、香りのもとはと、街路樹を注視すると、金木犀が木全体に黄色の花をつけてゐる。咲いたばかりで、まだ一粒も地面に花が落ちてゐない。しかし、時間が経ち、一日二日過ぎると、やがて黄色い絨毯が道路を敷き詰めるやうになる。

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家に帰ると、金木犀の花よりは大きく、しかし他のものと比較すると小さい花が咲いてゐた。花が小さければ、命も小さいのではと聯想したりする。命が小さいと、もちろん命も短いもの、さういふ思ひが脳裏をよぎる。

見落とされがちな目立たない花。しかし、写真を撮るこちら側に、小さいながら命の輝きを放ち、命の不思議さを伝へてくる。小すぎて、だれも、気にも留めない花、しかしそれでも、花開いて、命の輝きを放つてゐる。

この花も、じつは取るに足らないその他大勢のわたしたちとなんら変はりがない。人は、だれもその他大勢とは、これつぽちも、思つてゐないが、現実は正反対そのもの、その他大勢の一人にさへもなれないわれら。だからこそ、同類のかういふ小さい花に目が止まり、心動かされるのかもしれない。








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# トマトのシロップ煮 vendredi 2 septembre 2016
完熟トマト
スーパーで箱で売られてゐたトマトがあつたので、今年最後のトマトのシロップ煮を作るつもりで購入しました。購入したトマトの賞味期限切れの日が近づきさうだつたので、夕食後、期限切れの言葉に促されて、やむなく作りました。

鍋三つ
まず鍋を三つ用意しました。ひとつはシロップ煮用の鍋。そこに300cccの水と200gの砂糖を入れ、煮立ててシロップを作ります。

もうひとつの鍋はトマトの皮むき用として、水をいれ。沸騰させ、トマトの皮を湯むきする鍋として使ひます。

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三つ目の鍋は、冷水をいれ、茹でだトマトを急冷して、皮を縮みあがらせる鍋として使用します。さうすると指でつまむだけで簡単に皮は取り除けます。

脱 線
かうして文章が変換されるのを眺めてゐると、つい「沸騰」といふ文字に眼が止まってしまひます。なぜ沸騰の沸は「弗」になり、なぜ「ム」にならないのか、とつまらないことに眼が止まつてしまひます。敗戦直後の国語改革と称してなされた結果がこれです。いかにも中途半端です。

冷たい酸味と甘さ
さて本題のトマトのシロップ煮に話題を戻しますが、あとは湯むきしたトマトをシロップ煮の鍋に移し、煮たてるだけ、これで終はりです。

あとは一晩放置し、翌日保管用の器に移し、冷蔵庫に入れて冷たくすれば、残暑の日中、外出先から帰つたときなど、喉の乾きやからだの疲れを癒すために、舌鼓を打つ、ちよつとした娯しみになります。




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# 再読 消しゴムで消しながら読む vendredi 26 aout 2016
本は相変はらず紙の本を読んでゐます。別に紙の本にこだはつてゐるわけではありませんが、理由は、ただ読みたい本が電子本で存在しないか、電子本として出版されないからです。電子本はかさばらなくていいのですが、紙の本と読み比べると、目の疲れに相当のひらきが出ます。特に何日も、根を詰めて、長時間にわたり、集中して読書するときは、それが顕著に現れます。

それに電子本の出はじめの頃は、紙の本の半分くらいの値段で売られてゐて、いかにも買ひ得感がありましたが、いまは、紙の本と比較すると値段はほとんどおなじです。この辺の価格設定もなんともいへません。

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なによりも紙の本のいいところは、背表紙を見せて、いつでも目に触れられるやうに、本棚に並べられてゐることです。書店でカヴァーをしてもらひ、背表紙が見えなくて、なんの本かわからない状態では意味がありません。最低本の題名がわからないといけません。

人間は不思議な生き物です。なにかの拍子に、はつきりとした考へもなく、さういふ本に手が伸びたりするときがあります。言葉にできない、なんらかの必然が働いたかのやうに、書架から取り出した本に夢中になるときがあります。

20160826

もし、目の前の見えるところに本がなかつたならば、かういふ読書は生まれません。この偶然の産物ともいへる読書が、意外にも意外な結果をもたらすことがあります。だから本は、自分の手元、背表紙を読める状態にして、見えるところに置いておきませう。

二〇一一年に三度繰り返し読んだエルネスト・サバトの『作家とその幽霊たち』(現代企画室)、毎朝二三篇づつ読んでゐるアランの『教育論』(白水社)が関係したのでせうか、何気なしに手が出て読みはじめ、朝の読書の一冊に加はりました。

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二〇一一年に読んだときは、勉強するぞ、と意気込んでゐたのでせう、筆記用具を準備して読んでゐました。だから当然線が引いてあります。読んだ当初は、自分が思ふところがあつて線を引いたのですが、いま、その本を読んでゐると、本と格闘してゐるのではなく、以前読んだ箇所をなぞつてゐるだけだといふことに気がつきました。

これでは本を読んだことになりません。五年の歳月が経つてゐるにも関はらず、五年前の自分の軌跡を辿つてゐるやうなことをしてゐるのですから。五年の間にこの自分が変化したはずです。その自分がいま一度、エルネスト・サバトの『作家とその幽霊たち』を読もうとしてゐるのです。

20160826

それには先入観がないのが一番です。幸ひに線はシャープペンシルで引いたもので、ボールペンや万年筆で引いたものでわありません。だから消しゴムで消せます。また都合の良いことにシャープペンシルの芯は濃く柔らかい「B」か「2B」のものを使つてゐます。消すには最適で、跡が残りません。

消して読めば以前の痕跡に気をとられることなく、はじめてのときのやうに、サバトの文章に接することができます。五年を経た自分がそこから何が読み取れるか。この自分が劣化したのか先鋭化したのか、はたまた相変はらずなのか、読むたびに自分が試される毎日です。





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# 時代を語る間取り mercredi 24 aout 2016
目に見えるわけではありませんが、時代の枠といふものがあります。この目に見えない時代の枠ですが、これから逃れることは至難です。しかし、時代が過ぎて、過去として見ることができるやうになると、かつてあれほど拘束してゐた時代の枠が、簡単に瓦解するのを目の当たりにする場合もあります。

カズオ・イシグロの『浮世の画家』を読むとそれがよくわかります。

衣服などは、誰が見ても流行り廃りは顕著に見て取れます。流行がさほどでもないと思はれてゐるサラリーマンの制服、背広でさへ、時代がはつきり現れます。

ところで、いまでこそ日本のトイレは世界一完成されたものになつてゐますが、それ以前はといへば、日本の便所は最悪だつたかもしれません。

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大江健三郎はことあるごとに都合よく持ち出す「渡辺一夫」ですが、この渡辺一夫、日本人の臭覚が壊れてゐるのは日本の汲み取り式便所がいけないのだといつた人です。と同時に批判するだけでなく水洗トイレの普及に尽力したのもこの渡辺一夫です。

水洗トイレ普及以前は、日本の家屋のトイレは母屋から離れた場所、別棟か、あるいは家の端つこ、外れににありました。偶然ですが、カメラを担いで歩いてゐたら、昔を偲ばせる間取りのある貴重な家に出会ひました。これは間取りだけであつて、もちろんいまは水洗になつてゐるでせう。






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# いいな、と思ふその瞬間、それが写真のいのち jeudi 7 juillet 2016
夕方、太陽が傾きかけたころに見かけて、いつもと違ふ花の表情に惹かれて、撮つたものです。

いいな、と気がついて、急いで家に帰り、カメラをもつて戻つてきたのですが、すでに光の色が変はつてしまつてゐました。

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光の色も瞬時に変化してしまひます。とくにかういふ時は、それを痛烈に感じさせます。光が変はれば、いいなと思つたものもなくなつてしまつてゐます。

なんでもない日常の取るに足らない道端の一コマですが、でも、このなんでもない一コマの瞬間には二度と戻つてきません。

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花もしかり。盛りのその一瞬が過ぎるともう居た堪れなくなります。
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# 『影の外に出る』(片岡義男著 NHK出版) mercredi 22 juin 2016
仕事部屋の窓際にあつたカードボックスの一枚の抜書きカードが目に止まつたので、つまみあげて、読んでみました。カード末尾に書かれた出典から片岡義男の『影の外に出る』( NHK出版 )の文章だとわかりました。

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カードの書き写しの間違ひに気がついたので、書棚から本を取り出し、その頁を開いて確認してみました。恥ずかしながら漢字変換の間違ひを見過ごしてゐました。

奥付からこの本は二〇〇四年五月一日のものです。いまから十二年前です。いま読んでも違和感は微塵もありません。線を引いた箇所を拾ひ読みすると書いてあることが身に迫つてきます。十二年前の当時は頭で考へて理解してゐたのでせう。しかし十二年後のいまは実感をともなつて迫つてきます。

20160622

この本は現在絶版です。しかし、日本を取り巻くいまの状況から、この本をもう一度出版したら、多くの読書人の手がこの本に伸びてくるでせう。さうして伸びた手はきつと日本の戦後政治の本質を知るでせう。キイ・ワード、つまり最重要語の「さぼり」を手掛かりにして。




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# 高階秀爾著『日本人にとって美しさとは何か』 3/3 vendredi 17 juin 2016
■基準とは
日本語に「うなぎ文」といふ問題があります。この「うなぎ文」なる問題を引き起こしたのは、森有正( 1911 - 1976 )だと記憶してゐます。いま森有正を知る人がどれくらいゐるのかわかりませんが、一九六〇年代から七〇年代にかけて、その著書『バビロンの流れのほとりにて』『遥かなるノートルダム』『旅の空の下で』などで知られた哲学者、著作家でした。

この「うなぎ文」ですが、この問題は本来日本語論そのもののはずです。しかし、ここに都合のよい比較論が持ち込まれ、優劣論に取つて代はられてゐます。優れたとする外国語の基準を持ち込み、比較照合し、それによつて裁断し、問題を結論づける、そこに問題があるのだと考へます。

20160617
   < ものの見方 その一 >

■あるがまま
昨年みすず書房から出版された『セザンヌ』(みすず書房)の扉に、つぎのやうな献辞ーー要は人に価値を与えることだ。どんな人物であれ、ただあるがままにーーがあります。「うなぎ文」もかういふ観点から考へる必要があるのではないでせうか。ひとつの文法基準を絶対視する、だから、かういふ問題が生じるのだと思ひます。

また『セザンヌ』の包み表紙の裏を見ると、セザンヌが語つたとされる言葉ーーお若いの、どうして君にはそんなに遠くに見えるのかね、あのサント=ヴィクトワールが、絵のなかで主要なことは正しい距離を見つけ出すことだーーがコピーとして使用されてゐます。

このコピー文はなにを語つてゐるかといへば、「遠近法に則れば、君の描き方は正しい。しかしわたしにとつては、遠近法の距離ではないわたしの独自な距離があり、わたしにとつては、そちらのほうがもつと重要なのだ」といふことになるでせう。この言葉から、すでに伝統的な遠近法の支配から抜け出してゐたセザンヌの存在が見えます。

■比較優劣論とは
比較の優劣論は元来恣意的です。時代の主流・フレームワークそのもので、その時代に絶対的な力を発揮します。しかし時間を経るとその恣意性は明らかになり、その影響力もなくなり、単なる流行遅れなものになつてゆきます。ファッションのやうに、時代を支配して、影響を及ぼしたものが、過去のものとなると、野暮つたいものに思へるやうになるのとおなじです。

20160617
   < ものの見方 その二 >

『日本人にとって美しさとは何か』は、そのまえがきで「複眼の視点による日本文化論」とうたつてゐます。この複眼の視点は、優劣論の複眼の視点ではなく、あくまでも多面性、独自性、特異性、相違性を尊重する複眼の視点です。比較のための優劣論の視点ではありません。そこがこの本を本たらしめてゐるところです。

話は変はりますが、高校時代国語のテストに太宰治の作品を五つ書きなさい、といふ問題が出たことがあります。当時は、文学に対して、個人的に偏見をもつてゐましたから、本など読みもしませんでした。だから、とうぜん何も知りません。しかし耳学問から「シャヨウ」といふ音は知つてゐました。答案用紙に書くにはカタカナではかけませんから、思いついた漢字を書きました。源氏鶏太( 1912 - 1985 )の作品ならいざ知らず、こともあらうに「社用」と書いたのです。高校時代の個人的な爆笑譚です。

■日本の知識の程度
日本では学校教育にかぎらず、知識の程度はクイズの正解程度のものです。東京駅の設計者といへば辰野金吾、それで、わたしたちはすべてわかつたつもりになり、満足して、それから先には行こふとしません。これでは何も生まれません。しかしこの本の「東京駅と旅の文化」などを知ると、学ぶ意欲を惹き起こされます。これが知識といへるのであつて、先ほど引き合ひにだした高校のテスト問題などは、なんの役に立たない、たんなる物知り人間を作るためだけのものでしかありません。学校のテスト問題は今日もその本質は変はらないでせう。

20160617
   < 一筋縄でいくものなんかない >

さういふ情報で満足する人たちにとつては、この本は読みにくく、避けたくなるかもしれません。しかしさうでない人たちにとつては、この本は刺戟に満ちた、日本の文化を知る、ひいては自分を育(そだ)て、育(はぐく)んでくれた文化環境を知り得る大切な本になるでせう。




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