蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
<< May 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
# 責任を問はれるのは巨大メディアの朝日新聞社だ その七 mercredi 24 mai 2017
巨大で大量な粗大ゴミ
かうして書いてゐると、マス・コミが、なぜ巨大で大量な粗大ゴミ、マス・ゴミといはれるのか、いやでも理解できるし、その恐ろしさ怖さも実感させられてしまふ。

マス・コミの情報を、信じて、鵜呑みにしてゐたら、その制御下、支配下に置かれ、情報奴隷となり果て、生涯真実、事実の一片すら知らないままで、人生を終はつてしまふことになる。

マス・コミに自己浄化能力は期待できない。期待できるのなら、すでに浄化作用が働いて、信頼できる情報が人々の手に届き、よりよい民主主義の実現のために力を貸して餘りあるだらう。

ところが実情はさうでない。マス・コミが民主主義を破壊してゐるのだ。信じられないかもしれないが事実だ。日々、あらゆる手段を駆使して、喧伝者、煽動者として民主主義を破壊してゐるのだ。知つての通りマス・コミは人々に、考へるための情報、正確で的確、信頼できる情報を伝へることが本分だ。だがその本分は、なおざりにされたままになつてゐる。

20170524
   < 十年も人が住まない住宅 >

民主主義を民主主義たらしめるものひとつは情報である。誘導的でない、一方に偏つてゐない公平な情報が人々に届けられる。これが基本である。人々はその情報があつて、その情報に基づいて考へ判断し、同意したり意義申し立てたりするのである。さうあるのが民主主義である。

しかし、その民主主義が危機に瀕してゐる。民主主義の根幹をなす情報が侵されてゐる。破壊してゐる張本人は、権力の監視を主張するマス・コミだ。だがこれはとんでもない主張である。権力を監視するのはわれわれ一人一人である。有権者のだれひとりとして、マス・コミに権力の監視を依頼した覚えはない。間違つてもらつては困る。

双方向性社会の力
ネット社会が誕生しても、前近代的な先導者、喧伝者、煽動者としてマス・コミは存在し続け、その暴力的猛威もそのまま存続させてゐる。

昨今、現実世界とマス・コミが発信する情報との間に信じられないほど異常な乖離が目立つ。にもかかはらず、マス・コミは、相変はらず、旧態依然で、乖離の存在すら感じとれないでゐる。マス・メディアを覗くと「ゼノンの逆説」そのままの番組がそこかしこにあふれてゐる。それが嫌といふほど目につく。

ネット社会の出現が、多くのネット利用者に、情報の多面性、多元性を知らしめ、それ以前の旧体制下で知らされてきた情報の一面一元的な歪みを明らかにした。考へれば、マス・メディアのこの報道姿勢は人々を信頼しない愚者扱ひしたものである。

また情報発信がこれまでの既存メディアに限られなくなり、ネット利用者そのものがブログやフェイス・ブック、あるいは動画などを通して、情報発信できるやうになつた。これは意図的ではなが、しかし結果的に、マス・メディアの情報操作を明らかにした形になつた。

だれもが情報発信できる昨今、マス・メディアの情報を以前のやうに全幅の信頼を置いて、安直に信じる人は減少した。当然の結果として、情報を疑ふ人々も多くなつた。

20170524
   < 考へる人のポーズに疑問を呈する人も >

喜びと心配と
違和感を感じる、疑問を感じる。これらは、考へるための入口、なんにもまして祝賀すべきことだ。なぜなら人が考へるための一歩が疑ふことにある。まちがつても「信じる」ことではない。

「われ思ふ故にわれ在り」と書き記したデカルトをデカルトたらしめたのが、「疑問」だつた。『方法序説』の圧巻は「われ思ふ故にわれ在り」の一文にあるのではなく、ここに至る直前の文章ーーどうしても疑へないものがある。ここでかうして疑つてゐる自分がゐるーーにある。

紙媒体で育つた戦争の落とし子の大量の老齢世代は、今現在、人口的に社会の多数を占め、支配的だ。その大勢を占める世代が、いまだ既存の大メディアの情報から離れられないでゐる。

これは見過ごせないことだが仕方のないことでもある。しかし、それも時間が解消してくれる。やがて世代が入替はり、新しい世代の時代になる。しかし、それが許される時間が残つてゐるかどうか。

好機到来
本来ならマス・コミは、このやうな時期に、旧体制、旧弊からの脱却を図り、体制を検証し、情報のあり方を刷新する絶好の機会を迎へてゐるはずだ。しかし、それにも気づかず、いや、あへて故意に目を瞑つてゐるのか、旧体制を維持し、自らの権力を行使すことに固執して飽きない。さうなれば当然衰退、崩壊の道は必至になる。

さて公害と害毒を「たれ流」しづづけてゐるマス・コミの社説といふものをまた見て行ことにしやう。

 問題の番組は化粧品会社DHC系列の制作会社がつくった。動画サイトでも公開されてはいるが、周波数が限られ、公共性が高いテレビ電波が使われた点に見過ごせない問題がある。

紙面が限られ、字数制限があるのだから、周波数のことなど書く必要はない。ただ「公共性の高いテレビ電波が使はれた」と書けばよい。それで過不足なく伝はる。どうしても周波数のことが書きたいのなら「周波数の限られた公共性の高いテレビ電波が」となるのが自然だ。




| comments(0) | trackbacks(0) | 21:03 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは巨大メディアの朝日新聞社だ その六 jeudi 18 mai 2017
 権力の介入を防ぎ、放送・表現の自由を守るためにNHKと民放連が設立した第三者機関のBPOにとっても、存在意義が問われる案件だ。視聴者・国民が納得できる対応を求めたい。

権力とは?
この世は一筋縄ではゆかない。問題は、普段は身を潜めてゐて、表に出てこない。しかし、一旦ことが起こると、噴出する。上記一文にしてもさうだ。

日本国語大辞典第二版によると権力とはつぎのやうに定義されてゐる。

第一義「他人を強制し服従させる力」。第二義「法律でいう他への強制力。特に国家や政府の有する政治的権力」となつてゐる。「権力の介入」といふと、まず最初に思ひ浮かべるのが、第二義のほうだらう。

第二義の定義はわかるやうでわからない。法律とは本来人間が集団で生活するための決め事である。しかし決めたからといつて、それが遵守されるわけではない。なすがままにしておけば、決め事は決め事でなくなり、形骸化する。形骸化させないめに決め事を守るための決め事が必要になる。法律を法律たらしめるための法、強制力の誕生である。さうでなければ法律は機能しない。

20170518
   < これも力関係? >

決め事とニュアンス
法律は国に生きる全ての人の約束事、だから各人の感情や思ひやこだはり、つまりニュアンスのはいり込む余地はない。車で違反を犯して切符をきられることを思ふだけで良い。どれだけ釈明しても聞いてもらへない。車を運転する人ならだれも一度は経験あるだらう。法が法であるためにはさうする以外ない。

ところでもう一度思ひ出してもらひたい。辛淑玉を舐めまわすかのやうな映像をつくつたテレビ朝日のあの番組を。決め事の世界に、感情の差異を持ち込む。従軍慰安婦の日本と韓国、ともに決め事、約束事、法律のなんたるかを知らないから、いつまでたつても問題は解決しない。

法律概念の希薄な法律発展途上国のアジアにおいては、それでも通用するかもしれない。しかし、法律が生きてゐる国ーー一度約束したことは破棄されるまで生き続ける国からすれば、決め事にニュアンスを持ち込むこと自体考へられない不可解なことである。

20170518
   < 委ねるか、祈りの世界に >

権力のなせる業
権力をもつ、それははなにも国家や政府に限らない。マス・メディアも充分すぎるほど権力をもつてゐる。言葉尻や言質を捉へるのはまだ可愛い。意のままに操るために情報を操作、捏造する。

わが想ひを達成するために、わが論を正当化させるために、手はじめに世論を味方につける。そのための常套手段がアンケート調査。さうしてそれを根拠に都合よくわが論をはる。いまはそのカラクリを知る人も出てきた。しかしそれはまだ一握り。大多数はこの情報を疑ひもなく信じる人の集まり。だからこのイカサマ手法はいまも生き、いまも使はれ続けてゐる。

朝日新聞社は、傘下に数多の企業を従へる巨大メディアである。もちろん映像制作の企業も従へてゐる。だからそれとの相乗効果も生まれる。影響力は計り知れない。その新聞社が紙面の社説なるものを利用して非難する。

「報道は事実をまげない」、「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにする」と正論の「お題目」を唱へる。だが、この社説なるもののどこに、それがあるのか⁉︎これほど人を小馬鹿にし、人を欺く裏腹な言動はない。

「存在意義が問われる」「国民が納得できる対応」を!などと、歌舞伎よろしく大見得を切る。この大見得の大言壮語、見方によつては 、衆目だけを集めるためのもの。本来の狙ひは、それを担保に、BPO に対しては圧力をかける。巨大メディアのもつ権力をちらつかせる。さう読まれても已むを得ない表現である。

20170518
   < 衆目を集めるには、まず注意を喚起させる >

どこにもない自由
「表現の自由」といふ「お題目」。さてどうなのか、このときといふときにこの自由は保障されてゐない。事実、消費税が設定されるときも、その消費税が増税されるときも、歯牙にもかからない一部弱小メディア以外は、全メディアは必要だとするおなじ論調。言論の自由が守られてゐるから起きるべきして起きた論調なのだ、といふしかない。

政策をめぐつて対立が生じるのが必然、だがしかし、なぜか保革関係なくどこのメディアもおなじ論調。言論の自由を叫びながら、自ら率先して一方向の権力になびいてゐる。世の中一筋縄でいかない証左。

さういふ現実がある。しかし、それでも言論の自由を叫ぶ。さらに矛盾を極めるのは、相反するものの保障されるべき当然の権利を徹底的に攻撃して破壊する。叩く理由はわが原理(イデオロギー)に反するから。だから表現の自由といつても、「わが」表現の自由、「他」の表現の自由はない。この社説といふものも、それを実行して見せてくれてゐる。

例を挙げればきりがない。腐るほどある。表現の自由のないところには思想も学問の自由も、あらゆる自由は存在しない。そのことで自らの首を絞めてゐるにもかかはらず、自由を謳歌してゐるのは実は被害者なはずの、叫ぶ人たちだけだ。さういふ仕組みになつてゐる。

20170518
   < 弱者はほんとうのところ強者といふわけ >

印象操作
第三者機関とは口当たりのよい言葉である。人はこの言葉に騙されがちである。 BPO にしても、監督される側が出資して監督する第三者機関を作る。これが真の第三者機関か。これで第三者機関としての独立性が守れるのか。人間は弱いもので金になびく。人選にしても透明感がもてない。

さらにここでもうひとつ。ここで使はれる「国民」といふ言葉、この単語を覚えておいてもらひたい。つづく文章にもおなじ仕掛けが施されてゐる。ただ単語ひとつを入替へる。だが、この操作が、制御できない異様な効果を発揮し、猛威を振るふ。

かういふ言葉の技法だけはよく心得てゐて、巧妙、狡猾、露骨に、更にえげつなく利用する。これに対処するにも、手の施しやうがない。マス・メディアのマス・メディアたる所以で、この言葉は、疑はれることもなく、広く速く深く強力に伝播する。



| comments(0) | trackbacks(0) | 08:18 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その五 dimanche 14 mai 2017
イメージ
『イメージ 視覚とメディア Ways of Seeing』(ちくま学芸文庫)には「見ることは言葉より先にくる。子供はしゃべるようになる前に見、そして認識する」と書かれてゐる。

人は見る。そして、それが大脳の視覚野に伝はつて認識、理解する。ディック・ブルーナの絵本を持ち出すまでもなく、イメージは直接的にかつ強烈に視覚野に伝はる。だから残像濃く、印象深く、記憶される。

20170514

たれ流す
だれもが知るやうに、テレビ朝日は朝日新聞の子会社だ。そのテレビ朝日が
つぎのやうな映像を「たれ流」してゐる。

https://www.youtube.com/watch?v=J7sN7dM9YYg

なぜテレビ朝日はかういふ番組を制作するのか。

この動画を見てわかるやうに、つまりは修飾語の問題、個人個人が感じる多い少ないの感じ方の問題、だから議論にならない、永遠にかみ合はない。

つまりは感情論
感情論を論じたら収拾がつかない。感情は微妙な差異を問題にする。差異は埋まることはない。しかし人間は集団的動物である。集団で生きなければならないのだから決め事、法律が必要になる。法律には差異の入り込む余地はない。それが法律である。

それを無視して感情論を持ち出す。感情論を持ち出して解決が見出せるのなら問題はない。しかし、その解決策はどこまでいつても見出せない。かみ合はない平行線のままである。当然である。

https://www.youtube.com/watch?v=qWIlOeIV8w8

どこまでも感情論に拘泥するのなら、政治の分野でない他の分野でするしかない。しかしそれには努力と才能が必要だ。



他意のある制作物
制作者も最初からそれを承知してこの番組を作つてゐるから始末に悪い。ここに参加して意見を述べてゐる人たちも、出口のない感情の拘泥に困窮してゐるのが見て取れる。

この番組になんの意味があるのか。辛淑玉を意味なく大写しに映しにする。印象を焼き付け商品として売出すために?辛淑玉を大写しするカメラワークを見てゐると、今日的な観点にたつとセクハラもどきに見えてくる。見るに耐えへ難い。

https://www.youtube.com/watch?v=sm4Od9f8Rbk

また辛淑玉の感情論を補強するために都合よく挿入された映像、もちろん準備されたもの。これら映像のなんと用意周到なことか!それは司会者の田原総一朗も承知のこと、要は仲間(ぐる)の出来試合。

つまりテレビ朝日は、理窟を無視して、何が何でも辛淑玉に注目を集めたいのだと宣言してゐる。いやはや公共電波を使用して会社の意向を発表してゐるのである。

さういふ親元の朝日新聞が公共性を問題にしてMXテレビの番組を「たれ流す」と非難する。本末転倒、多くの人がさう思ふだらう。

つぎにつづく文章も意味不明、その意味不明な言葉で読む人の横つ面を張り倒し、面喰らはせ、思考を停止させる。

20170514

 当事者の動きとは別に、放送番組の質の向上をめざしてBPO内に設けられている放送倫理検証委員会も、MXテレビに報告を求めている。

施された小細工
これは事実に基づいた正確な文章なのかどうか疑問が残る。他の報道によると「のりこえねっと」の訴へに基づいて、といふことになつてゐるが、ここでは「当事者の動きとは別に」となつてゐる。

「当事者の動きとは別に」とは、どういふことなのか、なにを意味してゐるのか、理解し難い。

この文章からすると「のりこえねっと」の訴へとは関係なく、放送倫理委員会そのものが報告を求めてゐる、と読める。

空虚なコトバたち
ここで立ち止まつて考へてもらひたい。ここでなんの問題もなく当然として用ゐられてゐるこれらの言葉ーー「質の向上」「BPO」「放送倫理」ーーの実態を問ふと納得できる具体的な答へが返つてくるのか。

20170514

では、尋ねる。なにをもつて「質の向上」といふのか。

「BPO」とはいかなる組織なのか。公平な基準を持つた開かれた組織なのか。

人間として守るべき道もない、道徳もモラルもない昨今、放送の「倫理」とはなんなのか。

「日常を侵食する便利で空虚なコトバたち」、まさに『プラスチック・ワード』(藤原書店)を組立てただけでできた意味のない文章、しかしある種の人には心地よいコトバの並び、かういふ文章が人の心を揺さぶるだらうか。




| comments(0) | trackbacks(0) | 18:42 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その四 vendredi 12 mai 2017
さて、今回はまた朝日新聞の社説なるものに戻つて、書かれてゐることを検証してゆく。

辞書にない言葉 
 反対運動を支援してきた市民団体「のりこえねっと」の辛淑玉(シンスゴ)さんは、番組で「運動を職業的に行っている」などと中傷されたとして、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会に人権侵害を申し立てた。

この文章は、一見すると、どこにも問題のないやうに見える。しかし、考へると、疑問の残る文章でもある。

まず「市民団体」といふ言葉。市民団体の意味を知りたくて、普段机上で使用してゐる辞書を調べたが、市民団体といふ項目ない。

そこで幾つか辞書にあたつてみたが、国語辞書に掲載されてゐたのは第二版日本国語大辞典と大辞泉の二冊だけだつた。これらはともに小学館の出版物である。定義は「市民運動などを行うために結成された集団」となつてゐる。

20170512
   < 写真は撮影者の視線である >

さらに「市民運動とは」と調べると「既成政党や労働組合から独立した、市民を主体とする政治社会運動」となつてゐる。では「市民とは」と調べると「都市に住んでゐる人」「行政区画の市に住む人。市の住人」となつてゐる。
それでも納得できなかつたので、市民団体は NPO や法人に類するものかと調べたが、さうでもなかつた。 NPO や法人になるには、それぞれ審査基準があつて、それを満たさないといけない。しかし、ここでいはれてゐる「市民団体」なるものは第三者に見える基準を持たない団体である。

念のために第一版日本国語大辞典も調べてみた。こちらには、この辞書が出版された時点では「市民団体」といふ言葉は存在しなかつた。おそらく時を同じくしたころの大辞泉にも掲載されてゐないだらう。なぜなら大辞泉は日本国語大辞典に基づいて編集されてゐることが予想されるからである。

では、と考へて、用語辞典「現代用語の基礎知識」を調べてみた。二〇一七年版にはなかつたが二〇一六年版にはあつた。しかしここに掲載されてゐる「市民団体」は、その意味からして、市民団体「のりこえねっと」と似ても似つかないものだつた。

ネット検索すると、「市民団体」について、興味深い指摘もあつた。しかし、それはまだだれもが認める市民権を得るところまではいつてゐないと考へて、取り上げないことにした。

日本語はだれでも容易に造語ができる。だからかういふ問題が出てくる。また、それを承知して、都合よく言葉を巧妙に利用する人が存在するのも事実である。

20170512
   < 写真は撮影者の感動である >

手前味噌な罠
たとへば、この社説なるものの出だしの文章ーー事実に基づかず、特定の人々への差別と偏見を生むような番組をテレビでたれ流すーーが、つぎのやうな文章だつたら、読む人にどのやうな反応をもたらすか。

 事実に基づかず、基地反対運動をする人々への差別と偏見を生むような番組をテレビでたれ流す。あってはならないことが起きた。

まず書き手の立場が明白になる。だから「『ニュース女子』 #91」を見知つてゐる人は、読んで、立ち止まるだらう。待て、違ふ。なんと偏狭で政治的な発言だらう、と思ふのではないか。

単語ひとつ替へるだけで、これだけ印象が異なる。それに「たれ流す」も不快感をもたらす相手を見下げた下品な表現だ。

この文章だと、まさに『イメージ Ways of seeing』(ちくま学芸文庫)で指摘する通りの結果を見ることができる。つまり「人間のものも見方は、その人がなにを知つてゐるか、なにを信じてゐるかによつて、変はつてくる」が実践されてゐるのを目の当たりにする。

本来、読む人に、事実を伝へるために具体的に書こうとすれば「基地反対運動をする人々」になるはずだ。だが、なぜか「特定の人々」とぼかした表現にする。さうすることで、意味深長に、読み手の注意を先に引き延ばすやうに思はれがちだ。

しかし、なぜかういふ表現にするのか、熟考すべきである。

つまりは印象操作。つぎにくる「差別」と「偏見」を際立たせるめの印象操作である。「市民団体」なる言葉もしかりで「のりこえねっと」を政治活動的な団体ではなく、たんなる市民の集まりなのだと思はせるために「市民団体『のりこえねっと』」としてゐる、と解釈することができる。

表現によつて、反応は変はる。だから、かういふ表現をする。それは悪質で、暴力的だ。

読む人に「のりこえねっと」の活動が見えてこない。見えてこないことには、「中傷」「人権侵害」の訴へが、正当なものか、どうか、判然としない。

20170512
   < 写真は撮影者の訴へである >

言葉は発するものに反へる
読み進めればわかるやうに、この社説なるものを書いた人は、放送法なるものを持ち出して「報道は事実をまげないですること、意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と主張して、「『ニュース女子』 #91」の報道責任を追及してゐる。

この主張は、よりよい民主主義を実現させるためのものであり、考へるための根幹にかかはる知る権利を保証するものである。しかし、それがなされてゐないとすれば、重大な問題になる。

放送法を遵守してゐないのは「『ニュース女子』 #91」のほうか、はたまた朝日新聞のこの社説なるもののほうか。

ところで、この引用を、そのまま、この社説なるものを書いた当人にあてはめると、どうか。

引用した当人は、引用文を真摯に読み、真摯に受け取り、真摯に自らに課し、真摯にそれを実践してゐるのか。

まさか!

読んでわかるやうに、公的ともいへる新聞紙面を占有して、一方に与しただけの、まるで裸の王様のやうな駄文を壮語してゐるだけだ。





| comments(0) | trackbacks(0) | 17:57 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その三 mardi 9 mai 2017
あへて本文から離れて脱線するが、いはせてもらひたいことをいはせてもらふ。

この社説なるもの(あへてさういふが)を読むと、「この紋所が目に入らぬか」式のことしか書いてゐないのがよくわかる。

検証したり論じたりする以前に、まず自分の立場ーー左に立つか右に立つかーー有りきで、一方に与し、その立場から論じてゐる。だから結論は「この紋所が目に入らぬか」式になる。これはなにも考へてゐない証左だ。

実際に結論はだれもが予測する地点に着地してゐる。これでは紙面の無駄つかひ、読むものの時間の浪費でしかない。さらに悪質なのは、購読する人を見下し、その上購読料を掠めとつて、威張り踏ん反り返つてゐる。

立場といふものは、右(みぎ)左(ひだり)関係なく、おなじ側に立つてゐるつもりでも、異なるものだ。同じ立場にゐるつもりでも、事細かに聞き質して行くと、背中合はせの正反対といふ場合もある。

さうでありながら、この社説なるものは、根拠のない思ひ込みの善悪を振りかざして、愚にもつかない単純な論法を繰り広げてゐるだけである。

20170509
   < だれもがおなじ自由、おなじ権利をもつ >

第一段落の冒頭を見るだけで、すでに結論は予測できる。その程度のことしか書いてゐない。書き手は予定調和の自己満足の世界を書いて自己陶酔してゐる。購読者は、なにも知らず、迷惑にも、それに立ち会はされてゐるだけである。

よりよい民主主義を実現してゆくために、本来考へなければならない問題点は、この社説なるもののどこにも見出せない。マス・メディアやある学者たちは、オウムの一つ覚えよろしく、アメリカの安受売りーー「メディアは權力の監視者だ」ーーを唱へてゐるだけだ。

立場が変はると自らが「權力者」に取つて代はる。それを知りながら、気づかないふりをして、自らが權力者に成り代はり、自らのメディア媒体を利用して、弱者に權力を行使してゐる。これに立ち会はされる購読者は、わざわざ金を支拂はされて、悲惨な目にあつてゐるわけだ。これぞマス・メディアの歪んだ性悪さだ。列挙すれば切りがない。

ところでここに、マス・メディアがなにがあつても報道しない動画がある。 YouTube で見ることができる。しかし、これもいつか閲覧ができなくなるだらうから、ここに題名だけでも明示しておく。現在この動画を知る人は多いだらう。それによつて基地反対運動の実態を知ることができる。


「【ノーカット配信】沖縄ヘリパッド移設反対派リーダーが逮捕〜これが暴力行為の決定的証拠だ!」


さらにこの動画には続編がある。そこでは「(前回の)動画がクソだから撮らせない」と撮影を拒否してゐる場面がある。

この動画も文字起こしすれば、多くの問題が明示されるだらう。さうして考へる契機につながるはずだ。

20170509
   < 現実がどうあれ、せめて希望だけは >

最初「プロ市民」と聞かされても、この自分はなにも連想できなかつた。しかしこの動画を見て「プロ市民」といふ造語に心底得心がいつた。

日本は、民主主義の制度を取り入れてゐるから、民主主義国家である、と思つてゐる人がゐるかもしれない。しかし、この動画を見ると日本が民主主義国家であるとは信じられない。

日本の民主主義といふのは、表面的な体裁だけで、実際は憲法も存在しない、詭弁と暴力が支配する国に見えてくる。とくに沖縄の基地反対運動の実態をしるとさう思へて仕方がない。

たしかに憲法では思想の自由、学問の自由が謳はれてゐる。しかし、これが保障されてゐるのは左に属する人だけである。右に属する人にはそれらは認められてゐない。私学ではあるが、同志社大学の学長選挙を思ひ出すだけで充分である。

またこの社説なるものを読んでも同様のことが行はれてゐるのがわかる。




| comments(0) | trackbacks(0) | 19:05 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その二 dimanche 7 mai 2017
では、つぎに「驚くのはその内容」がどういふものか検証してゆく。

 軍事ジャーナリストを名乗る人物の現地報告は、建設に反対する人たちを遠くから撮影し、「テロリスト」「無法地帯」などと呼んだ。「過激な反対運動の現場を取材」とうたいながら実際には足を運ばず、約40キロ離れたところからリポートした。

この段落まで読んで第一段落冒頭の「事実に基づかず」が具体的になにをさしてゐるのかわかる。「過激な反対運動の現場を取材」と名打ちながら、その現場には足を運ばず、約40キロ離れたところからリポートした。それが「事実」ではない論拠になつてゐる。

この論拠、まるで「どうした」と訊いてくれる大人に、泣きじやくりながら自分の正当性だけを訴へる餓鬼そのもの理窟だ。YouTube で「ニュース女子 #91」の冒頭二十分を見れば、見た人にはこのジャーナリストが現地に行けなかつた理由が伝はつてくるだらう。なぜ足を運べなかつたのか、なぜ四十キロ離れたところからリポートせざるをえなかつたのか、がわかるだらう。

またここで「特定の人々」の正体もわかる。「差別」と「偏見」といふ言葉を用ゐるから、どういふ人のことをいつてゐるのかと思へば、(高江ヘリパッド)建設反対運動をする人たちのことをさしてゐるのだ。よりによつて「特定の人々」とは、捻りを入れて、上手く言つたものである。

20170507
   < 希望を見つけるのか >

さらにこの期に及んで、つぎのやうに言ひ募る。

 不可解きわまりない「取材」であり、論評である。

取材のあり方を問題にするのなら、この社説といふ作文を書いて時間を潰してゐる人自らが現地に赴き、取材して、取材の手本を見せれば済むことである。地元二紙ーー琉球新報と沖縄タイムスーーの記者は問題なく取材できて、本土のジャーナリストが取材できないのはなぜか。

いついかなる時も支援してくれる地元二紙には取材させ、立場が異なると取材させない。これこそ偏見と差別だ。取材させない理由が立場を異にするからでは説明にならない。

取材させたくない不都合があるのなら、その不都合を取材してもよい都合に変へて行く必要がある。

『思考と行動における言語』を読めば「二値的」「多値的」といふ言葉に出会ふ。悲しいかな朝日新聞のこの社説は、二値的な考へ方の範囲を一歩も出てゐない。不勉強そのものである。それどころか二値的な考へ方に固守し、精鋭化し、さらに原理主義化し、兇暴化してゐる。さうなると衝突は必然で避けられない。悲しいかなこの社説と同じで悲惨な結末の現場が見えてしまつてゐる。

20170507
   < 飲み込まれるままに任せるか >

人間の智慧は一体どこへいつてしまつたのか。二値的思考に陥ると人間が人間でなくなる。どこかの教授だといふ人が「貴様は人間じやあない、ぶつ殺してやる!」と怒鳴つてゐ映像がある。歴史を持ち出すまでも及ばない。人間が人間でなくなつたから、かう叫べるのだ。もし仮に冷静に振り返られる時が持てるのならば、恥ずかしくて自分の昔を直視できないだらう。

ところでここでもう一点、「取材」についてだが、日頃「取材してわかつた」とよく聞く。しかしこれがほんとうに「取材」なのか。「取材」の名に値するのか。おおいに疑問がある。

なぜといつて設けられた場で一方的に「発表」される事柄を聞いて、それを録音し、それを「取材」といつて憚らない。これが「取材」としてまかり通つてゐる日常がある。

「取材」を問題にするのなら、一人のフリージャーナリストの「取材」を問題にする前に、多くの正社員身分のジャーナリストが日常的に行つてゐる発表を聞いくだけの、「取材」のあり方こそ問題にするのが先決だ。

反対派の人たちの殺気で、足を踏み入れられなかつた取材、もう一方では一方的に発表される現場にたちあふ「取材」、どちらが取材と言へるのか。


| comments(0) | trackbacks(0) | 16:55 | category: ひと言 |
# 責任を問はれるのは朝日新聞社だ その一 samedi 6 mai 2017
一月二八日の朝日新聞の社説「『偏見』番組 放送の責任わきまえよ」が掲載されてから、早くも三ヶ月が過ぎた。すでに忘れられた、遠い過去のことだと思はれがちだが、さうではない。逆に、かういふものは期間を置いて再読したほうがよい。

FacebookやTwitterの字数の決められた短文投稿をみればわかるやうに、人は関係する出来事の渦中にゐれると、つい感情的な、好悪だけの表現になりがちである。激しい感情的な好悪の表現がなにをもたらすのか、疑問だ。

一般意味論の本『思考と行動における言語』(岩波書店)を読むと、人は言葉や記号からシゲキを受けて反応し行動するものだ、さうだ。

また『イメージ Ways of seeing』(ちくま学芸文庫)によると「人間のものも見方は、その人がなにを知つてゐるか、なにを信じてゐるかによつて、変はつてくる」とも書かれてゐる。

さういふことを念頭に置いて、一月二八日の朝日新聞の社説を読んでゆく。どういふ仕掛けが施されてゐるのか、検証してみたい。冒頭はかうである。

 事実に基づかず、特定の人々への差別と偏見を生むような番組をテレビでたれ流す。あってはならないことが起きた。

20170506
   < この写真を撮る前に既視の風景がある >

この段落でまづ気になる表現がある。なぜこの表現を使ふのか疑問だ。それは「たれ流す」である。「放映した」ではいけないのか。なぜわざわざ悪い印象を与へるこの表現を選ぶのか、納得がいかない。読んで嫌な気持にさせるために、読んで悪い感情を引き起こすやうに、故意に「たれ流す」といふ表現を選んだのではないか、と疑はざるをえない。

まづ冒頭で「事実に基づかない」と断定してゐるのだから、それにつづく文章も「生むような」などと「推測」などしないで、断定して「特定の人々への差別と偏見を生む番組をたれ流す」としたらどうなのか。さらに断定が続いて「あってはならないことが起きた」と結んでゐる。

前出の『思考と行動における言語』においては、「報告」は二つの規則に従ふ必要があるとして、かう書いてある。
一つ、書かれたものは実証可能でなければならない。
二つ、可能な限り「推論」と「断定」は排除しなければならない。

このふたつは、報告とはなにかを定義してくれてゐる。そのことを踏まえてこの文章を読むと報告文になつてゐないのがよくわかる。普通報道に関はる人なら、このふたつは遵守するはずだと人は思ふ。しかしそれを見事に裏切つて、かういふ文章をたれ流す。これは報道を信じてゐる人を冒涜し、裏切り、誤つた考へに誘導する策術である。

日本の大多数の人は報道を信じ、それに基づいて、考へを巡らし、自分の考へを構築して、意見を述べてゐる。それを裏書するかのやうに『イメージ』には「人間のものも見方は、その人がなにを知つてゐるか、なにを信じてゐるかによつて、変はつてくる」と書かれてゐる。

書かれたものが実証可能な報告になつてゐなかつたら、読む人はどこに導かれるのか、想像すると恐ろしい。今日の日本の現状からすると、悲惨といふしかない。

20170506
   < ここで見た暗緑が白を際立たせてゐる >

『思考と行動における言語』において「断定」とは、書き手が述べてゐる出来事、人物事物について自分の賛成・不賛成を言い表すこと、とされてゐる。読めばわかるやうに、この段落の締め「あってはならないことが起きた」は、まさに断定そのものである。

さうしてみると、冒頭の段落は、断定、印象操作、断定となつてゐる。まづ断定で暴力を振るわれ、思考が中断されてゐる間に、印象操作され、つづいてまた断定で思考中止を余儀なくされる羽目に陥るやうになつてゐる。

つぎにつづく文章はかうである。

 ローカル局、東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)が、今月2日放送の「ニュース女子」という番組で、沖縄・高江に建設された米軍ヘリパッド問題を特集した。

一見報告文のやうである。しかしほんとうは報告ではない。なにがさうさせるのか。「米軍ヘリパッド問題を特集した」この部分が、唯一報告になりさうなのを報告でなくさせてゐる。報告するのだつたら「米軍ヘリパッド反対運動を特集した」とするべきだ。

さらにもつと読むに耐へないのは、つぎにつづく断定の文章「驚くのはその内容だ」だ。

つぎつぎと断定のパンチを繰り出し、読む人に衝撃を与へ、痺れさせ、考へる暇を与へない。これはなにを意味するか。

では、つぎに「その内容」がどういふものであるか検証してゆかう。
| comments(0) | trackbacks(0) | 00:00 | category: ひと言 |
# 反対しながら、すでに「共謀罪」を導入してゐる東京新聞 samedi 29 avril 2017
20170429
   < 時期が遅れてしまひましたが・・・ >

日本のマス・メディア(新聞もTVも)の報道が、いかに偏つてゐるのか、いかに悪質なものなのか、いかに権柄で、いかに横暴で、いかに有無を言はせない傍若無人なものか、それもいままでいかに正義面をして振舞つてきたか、その実態がネット社会のおかげで、やつとわかるやうになつてきた。

ネット社会が出現する以前は、ニュースを知るのは、日本のほとんど大多数の家庭では、定期購読してゐる一社の新聞に限られてゐた。その紙面で、ほとんどの日本人が、ものの見方、考へ方、感じ方を教へこまれてきた。ネット社会以前では、複数の新聞を、読み比べるといふことは、家父長制の父親の権威や新聞の講読料のことなどの諸事情があり、考へも及ばなかつた。

しかし、いまや与へら、提示され、教へ込もふとするマス・メディアの報道に疑ひを抱く人は、ネットを利用すれば、疑問や違和感に応へてくれる情報が存在し、それを知ることができるやうになつたのを知つた。

いまや新聞離れした多くの若い世代を筆頭にして、マス・メディアの報道を信じない人たちが増えつつある。さういふ現実がありながら、しかしもう一方で、マス・メディアは過去の栄光にしがみつき、過去を死守したいがために、現実を無視して、いまも自分の都合の良い報道にしがみついてゐる。

今年の二月二日朝刊に、地方新聞ではあるが、東京新聞につぎのやうな署名記事が掲載された。

「ニュース女子」問題 深く反省 沖縄報道 本紙の姿勢は変わらず
 
 本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会の東京MXテレビ「ニュース女子」一月二日放送分で、その内容が本紙のこれまでの報道姿勢および社説の主張と異なることはまず明言しておかなくてはなりません。

 加えて、事実に基づかない論評が含まれており到底同意できるものでもありません。

 残念なのは、そのことが偏見を助長して沖縄の人々の心情、立場をより深く傷つけ、また基地問題が歪(ゆが)めて伝えられ皆で真摯(しんし)に議論する機会が失われかねないということでもあります。

 他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています。とりわけ副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します。

 多くの叱咤(しった)の手紙を受け取りました。 
 「一月三日の論説特集で主幹は『権力に厳しく人に優しく』と言っていたのにそれはどうした」という意見がありました。

 それはもちろん変わっていません。
 読者の方々には心配をおかけし、おわびします。
 本紙の沖縄問題に対する姿勢に変わりはありません。
 (論説主幹・深田実)

さらにこの記事の下に、漢数字の使ひ方からして、別の人が書いたと思はれる。問題となつたニュース番組の説明記事が掲載されてゐる。

◆「ニュース女子」問題とは
 東京MXテレビは1月2日放送の番組「ニュース女子」で冒頭約20分間、沖縄県東村(ひがしそん)高江の米軍ヘリコプター離着陸帯建設への反対運動を取り上げた。本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会を務めた。

 「現地報告」とするVTRを流し、反対派を「テロリストみたい」「雇われている」などと表現。反ヘイトスピーチ団体「のりこえねっと」と辛淑玉(シンスゴ)共同代表(58)を名指しし「反対派は日当をもらってる!?」「反対運動を扇動する黒幕の正体は?」などのテロップを流した。辛さんは取材を受けておらず、報告した軍事ジャーナリストは高江の建設現場に行っていなかった。

 MXは「議論の一環として放送した」とし、番組を制作したDHCシアターは「言論活動を一方的に『デマ』『ヘイト』と断定することは言論弾圧」としている。辛さんは名誉を侵害されたとして、1月27日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会に申し立てた。

 のりこえねっとは沖縄の現場から発信してもらう「市民特派員」を募集、カンパで捻出した資金を元手に、本土から沖縄までの交通費として5万円を支給。昨年9月から12月までに16人を派遣した。

そこで東京新聞副主幹の司会者長谷川幸洋がどのやうな発言をしてゐたか 『ニュース女子』 #91 から文字起こしをしてみた。なほカッコ内の補足は蛮茶菴がした。

これ(沖縄への飛行機代)はだれが出してゐるの?

地元のメディアは(反対運動に)シンパシーがあるから(取材できる)

普通のメディアは報じやうと思つたら、報じられない(わけ?)

つまり、あなたはだれですか?井上さんといふ人です。

ちよつとききたいのはお金(のこと)ですよ。

五万円日当を(これは飛行機代金五万円と勘違ひしてゐる)・・・

これ(飛行機代)はだれが出してゐるの?

まあ、この手の反対運動で、たとへば怪我人が出るとか、ましてや死者が出るとかして、そんな話にでもなつたら、それこそ火がついてしまふからね。

ああ、それで、また、もめると。

ああ、さういふこと。

井上さんご苦労様でした。

また機会があつたら。

以上が司会者の発言である。この発言のどこに虚僞、ヘイト、デマの問題発言があるのか。

この発言で「ニュース女子」で司会をする東京新聞の長谷川幸洋は東京新聞論説副主幹の任を解かれ、降格されたといふ。

文字起こしした発言からもわかるやうに、長谷川本人は虚僞発言も、デマ発言も、ヘイト発言もしてゐない。

だのに東京新聞は長谷川本人とは無関係に、謝罪記事を掲載し、謝罪し、挙句に、長谷川幸洋論説副主幹を罰し、降格処分にしたといふ。『共謀』したとみなされて、『罪』された、としか思へない。あれだけ共謀罪に反対しながら、自らは共謀罪を適用して自社の社員を罰する。呆れた所業である。

それに、ここでいはれる報道姿勢とは何なのか。報道は、事実を、多面的多次元的に、公平に、偏りなくするのが常識だらう。その他にどういふ報道姿勢が必要なのか。

報道は、社の方針、社の社説の主張、イデオロギーに基づかなければいけないのか。変ではないか。低次元で話にもならない記事である。

新聞社の意向に沿はないから論説副主幹の長谷川幸洋はダメだ、とわざわざ公の新聞紙面を割いて言つてゐる。だれに、またはなにに忠誠を誓つて、忠義を尽くすのか。

東京新聞の意向は、右と左なら、左。その意向に基づいて報道されるものなのか。左は常に正しい。東京新聞の記事はさういふものだ、と断言してゐる。愚にもつかない、知られたらまずい低次元な話を臆面もなく記事にして載せてゐる。

日本のマス・メディアは、無邪気にといふか、妄信してといふか、愚かといふのか、アメリカのマス・メディアを模倣して「権力を監視する」のが至上の務めだと信じて疑はない。本来権力を監視するのは有権者一人一人であつてマス・メディアではない。それが民主主義である。

メディアは単なる報道機関にすぎない。メディアに接すればわかるが、メディアに、特に日本のマス・メディアに「権力を監視する」能力はない。

メディアの最重要な仕事は、国民各人に考へてもらふために、多面的多次元的に公平に偏りなく出来事を報道することだ。これを蔑(ないがし)ろにして、権力を監視したり、国民を教育しなかればならないといふ思ひ込みは、不遜そのものである。

色付けや、断定や、偏見のない多面的多次元的な報道、多様な文脈のなかに置かれた報道、人々はそれら偏りのない情報に基づいて考へる。辛抱の要る大変な道程だが、これが民主主義の在り方だ。よりよい民主主義を育てるためには忍耐強く、これをどこまでも辛抱強く繰り返し実行していくしか方法はない。

それを奨励することなく、なにを勘違ひしたのか、歴史の浅いアメリカの受売りを信じて、考へもせず、鸚鵡返しよろしく「メディアは権力を監視する」と臆面もなく、声を張り上げて日本のマス・メディアは主張する。間違つた果てに、国民の上にたつて、号令をかけて憚らない。

かういふ土壌に民主主義は育たない。なによりもまず第一に、マス・メディアからして人間を信じてゐない。組織が、人間を超え、人間を押さえつけ、人間を蔑ろにし、人間を愚弄し、人間を無視してゐる。人間の考へではなく、組織の考へが最優先されるのである。

権力の監視者だといつて、だれ憚らないマス・メディア。イエスかノーの二者択一、二値的な価値しか認めないマス・メディア。独裁者そのもののマス・メディア。そのマス・メディアが、表向きは民主主義を賞讃しながら、しかしその裏では、舌をべろりと出して、民主主義を粉微塵に破壊、崩壊させてゐる。

俺様は全てを牛耳る真の支配者。影の独裁者。歪んだ権力者。さう俺様は日本のマス・メディアだ。
| comments(0) | trackbacks(0) | 19:45 | category: ひと言 |
# 「土人」発言といふ暴力 lundi 20 février 2017
考へることを放棄した教条主義者ほど怖いものはない。

ネット上には、これまで考へられなかつた情報が溢れかへつてゐて、偶然思ひもかけない情報に接したりすることがある。

沖縄の地方新聞の記事もその例に漏れない。最近ネットで新聞記事を見ると以降は登録してとなつてゐて、有料記事になつてゐる。しかし一方では、社説などは、読ませたいのだらう、各社無料でどれだけでも読むことができるやうになつてゐる。「社説一覧」と入力するとそのサイトをみることができる。そこを覗くと社説が好きなだけ読めるやうになつてゐる。

いまでもこれら社説をありがたがつて読む人がゐるのかもしれないが、さういふ種類の人は、おそらく化石時代に属する人なのだらう。どの社説も書き方は一面的で、内容も一面的で、陳腐で、読むに耐へられないものばかりである。第一書き手の高慢な態度が、鼻につく。なぜ命令調の態度をとらなければならないのかわからない。時代錯誤の標本を見せられるやうだ。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを、と書いた学者先生のものも陳腐である。記事は、占師のごとくすべて推測で、これで原稿料がもらへるのだから結構だ。書き手と掲載者には責任がある。その責任はどこにあるのか。記事のどこにも見えてこない。

ネットで、無料で、閲覧できるのだから、引用しても問題はないだらう。

 非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。

20170220
    < おなじヘリパッドでも場所が変はれば >

これは冒頭の部分である。ここで着目すべきことは『「土人」発言という暴力を振るった』といふ箇所だ。「発言を暴力」とするのなら、金網を利用した挑発行爲や挑発言動ももちろん暴力になる。

さうなると「非暴力の闘争」ではなく、「暴力の闘争」になり、また「暴力を使わずに」ではなく、「暴力を使つて」といふことになる。これで、この書き手の理論が破綻してしまふ。それにもかかはらず、かういふ理論の破綻した記事を掲載する新聞社もお里が知れてしまふ。

 猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。

沖縄の基地問題は差別構造に由来するのか。さうではないだらう。地政学的観点に由来すると考へられる。

 もちろん、それが一般化し「沖縄人は土人だ」という空気が広がる可能性もある。その場合、沖縄は独立せざるを得ない。そのときは世界中がそれを容認し、日本は威信を喪失するだろう。だからこそ、ここが闘いどころだ。

この文章が掲載されたのは二〇一六年十月二六日、いまは二〇一七年二月二十日(月)。沖縄の人は土人とみなされてゐるだらうか。「可能性」は残念ながら裏切られてゐる。この書き手の理窟からいふと、土人とみなされるのなら沖縄は独立しなければいけないのだが、土人とみなされてゐないのだから独立の必要性はない。おかげで日本は威信を喪失しなくてもすむ、といふことになる。

まだ少し続きがあるが、あまりにも稚拙なので、もう論じる気もしない。考へることを放棄した教条主義者の陳腐さ、狂信さ、独断さだけが目立つ。可愛さうに、肩書にすがつて、声高に喋つてゐる人間の姿がみえてくるだけだ。

蛇足だが、むやみやたらにカタカナ語を乱用しない。漢字で表現出来るカタカナ語は漢字で表現する。カタカナ語の乱用は日本語の衰退、いや日本文化の衰退につながる。アジェンダとかアクションなんて不要なカタカナ語は使用しない。実際にここに使はれるアジェンダ(議題)は意味不明だ。





| comments(0) | trackbacks(0) | 17:08 | category: ひと言 |
# 言葉尻を捉へた土人発言報道 dimanche 15 janvier 2017
YouTube のつぎの動画で、機動隊員が土人、支那人といつてゐる画像をみることができる。芥川賞作家の目取真俊が撮影し投稿したものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=-SANg73TJJQ 
( 敢へてリンクしません。興味があつたらクリックしてご覧あれ )

ニュース作りーー敢へて「作り」と強調するーーに携はる人たちにとつて、ネタ探しは死活問題だ。そこへこの土人発言。メディアのニュース探し人にとつて、これは千載一遇の好機。案の定、大ニュース、大問題として、扇情的に、煽り立ててニュースに仕立て上げてゐる。

だから思惑通りこの動画を見れば、だれもが憤慨するだらう。さういふ動画であるが、この画像には欠けてゐるところがある。偶然、自然に、抜け落ちたものではなく、敢へて、故意に、削除したふたつの要素だ。作家が投稿したものだ。どこを捨てて、どこを強調するか、編集はお手のものである。

20170115
   < 大地の恵みを吸収すべく根をはつて >

5W1H( When Where Who What Why How )はだれもが知つてゐる。情報を発信するには遵守すべき要素だ。しかしこの動画を見る限り、この中のふたつの要素ーー Why と How ーーが抜け落ちてゐる。それも編集されて、故意に。

5W の Why にあたる、「なぜ土人と発言したのか」といふ Why が抜け落ちてゐる。また1Hの How にあたる、「どのやうな状況下で」土人発言に至つたかといふ How が欠落してゐる。ジャーナリストといはれる専門家が使用する動画としてはお粗末といふしかない代物だ。しかしそれを敢へて使用してゐる。

ニュース作りとして、故意に、これら二要素を無視した作りだ。といふことは、ニュースとしては偏狭で、偏りがあり、煽情的で、動画を見る多くの人に事実を伝へる努力がなされてゐないと見做されても仕方がない。

20170115
   < 冬の陽光を浴びて凛として >

人は知る得る説明や情報に基づいて考へ判断する。普段の平穏な状況下で、一方的に突然土人といはれたのなら、問題にされるべきだ。しかし、さうではない。だのに状況の説明がなされてゐない。これは人の知る権利を妨害し、ある方向に導かうとする意図に基づいたプロパガンダ、つまり政治的意図に基づいた宣伝行爲だ。

賞を取るほどの物書きなのだから、かういふ姑息なことはしないと思ふが、現実は、動画を見る限り、さうでない。物書きの端くれなら、土人発言に至る経過を収録し、どのやうな状況下で土人発言がなされたかを明らかにすべきだ。さうでなければ問題の本質が疎んじられた感情対立を煽るだけで終始してしまふ。

少なくとも、これは報道として動画を採用するメディアが指摘すべき事柄なのだが、いまのメディアにさういふ能力はない。それほどメディアは能力が低下し、異状で、常識が通用しない状況のやうだ。




| comments(0) | trackbacks(0) | 10:32 | category: ひと言 |
Categories
Archives
Profile
Comments
  • いいな、と思ふその瞬間、それが写真のいのち jeudi 7 juillet 2016
    蛮茶菴 (07/09)
  • いいな、と思ふその瞬間、それが写真のいのち jeudi 7 juillet 2016
    Genkikun (07/08)
  • 卵を孵す鳩 vendredi 10 juin 2016
    蛮茶菴 (06/11)
  • 卵を孵す鳩 vendredi 10 juin 2016
    Genkikun (06/10)
  • 恩恵に感謝しながら dimanche 14 fevrier 2016
    Genkikun (02/16)
  • 夏の夜、東京湾架橋レインボーブリッジを歩く samedi 15 aout 2015
    蛮茶菴 (08/17)
  • 夏の夜、東京湾架橋レインボーブリッジを歩く samedi 15 aout 2015
    Genkikun (08/16)
  • 紅茶は受皿に移して飲むもの?? jeudi 23 juillet 2015
    蛮茶菴 (07/26)
  • 紅茶は受皿に移して飲むもの?? jeudi 23 juillet 2015
    Genkikun (07/23)
  • 續・里芋が吸ひあげてできる水滴 mercredi 17 juin 2015
    蛮茶菴 (06/19)
Trackback
Mobile
qrcode
Search this site
Sponsored Links