蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 香港で第二の天安門事件が起きつつある mercredi 14 août 2019
香港のデモが第二の天安門事件にならぬやうに、いまPCの前に坐つてゐるこの自分も出来ることのひとつを紹介します。



新唐人TVのコミュニティには以下のやうに告げられてゐます。

中国共産党をテロ組織として認定するように求めるホワイトハウス請願サイトができています。

#拡散希望 
https://petitions.whitehouse.gov/petition/call-official-recognition-chinese-communist-party-terrorist-organization


署名をお願ひします。

#香港デモ
香港のデモの実情を知るにはこちらのアドレスから!
https://www.youtube.com/user/NTDTVJP










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# 香港7月26日 2500人が空港に集結 vendredi 26 juillet 2019
七月二六日の新唐人TVで香港空港ロビーでの香港デモを見た。
動画サイトはこちら。https://youtu.be/flmjXTW6N6A

熟考に熟考を重ね、考へ尽くした選択結果、つまり「世界の良心に訴えへる」最良の場所だと考へたのだらう。
よくぞ考へついた、と感心する。

一人でも多くの人が関心をもち、関心を寄せ、応援したら、世界が変はるかもしれない。

このブログだつて塵芥にも満たない電子空間に漂ふものでしかない。

しかしさう言ふことはどうでもいい。大切なことは、応援の意思表示をすること。

加油 香港の人たち!

応援してゐます。
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# 崩壊 朝日新聞 vendredi 17 mai 2019
あるところで「はせがわ ひろし」といふ名前を耳にした。同時に崩壊する朝日新聞といふ本を書いた人だとも聞いた。無学だから何も知らない。どちらも初耳のことで、長谷川煕(はせがわ ひろし)といふ漢字も知らなかつたし、『崩壊 朝日新聞』といふ題名の本があることも知らなかつた。

市の図書館のホームページで検索して長谷川煕の著作を借りてきた。一応『改訂版 崩壊 朝日新聞』( 2018/06/26 )をはじめとして『偽りの報道 冤罪「モリ・カケ」事件と朝日新聞』( 2018/02/26 )『こんな朝日新聞に誰がした?』( 2016 )『アメリカに問う大東亜戦争の責任』( 2007 )の計四冊を借りてきた。改訂版前の『崩壊 朝日新聞』は二〇一五年に出版されてゐる。

ついでに朝日新聞が著者・小川榮太郎と出版社・飛鳥新社に対して五千万円の訴訟を起こした『徹底検証「森友・加計事件」朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』( 2017/10/22 )も借りてきた。ちなみに朝日新聞が訴訟を起こしたのは、本書が出版されたほぼ一ヶ月後の二〇一七年十一月二六日である。

日時を押さへておくことで、状況が見えてくる。子供の喧嘩ではないから、それ相応の準備が必要である。同様のことを知る限りでは、訴訟を起こすと云はれると、これまで多くの著者や出版社は出版を継続することを断念してきた事実があることを知り得る。それは一件や二件ではない。「訴えると脅しながら抗議」するのは朝日新聞の常用の脅し文句のやうである。

この場合も他の多くの場合とおなじやうに、訴訟を示唆すれば出版継続を断念するだらうと信じてゐた節がある。しかし予想に反して、実際、受けて立たれ、裁判沙汰になつてしまつた。故意な虚僞、捏造があれば当然だが、小川榮太郎の本は可能な限り、實証的に、意見を述べてゐるだけだと判断できる。

日々の紙面で、言論の自由を主張し、分を超へた独り善がりなオピニオンリーダーとして、論陣を張つてゐる新聞社が、返す刀で、自社の意見、主張に反する個人の考へ、個人の意見、個人の言論を訴へ、抑圧するかのやうな奇妙な訴へとなつてゐる。

20190517

その延長からすると、長谷川煕の二〇一八年に出版された二著も裁判の対象になりさうであるが、さうなつてゐない。なぜかと思ひながら本に紹介された著者の略歴を見て、漫然とした、やり場のない、形容しがたい感想をもつた。

略歴によると長谷川煕は一九三三年生まれ、六一年朝日新聞入社、九三年定年退職となつてゐる。長谷川自身も『崩壊 朝日新聞』のまえがきで「私は一九六一年に朝日新聞に入社し、九三年に定年退社し、その後も、八八年創刊の時からいた雑誌『AERA(アエラ)』に一年間の嘱託として、後はフリーの社外の筆者として、そこを舞台に取材、執筆を続けたが、この本を書くために、二〇一四年八月末をもってその『アエラ』から消えた」と述べてゐる。

「なぜ、この本を書くのか。二〇一四年八月五日に、(筆者は)その日の朝日新聞朝刊の、あの特集を見たからである」と語つてゐる。

あの特集とは、慰安婦誤報記事である。

長谷川煕は改訂版ではない『崩壊 朝日新聞』のまえがきで、つぎのやうに述べてゐる。長文だが引用する。

「日本統治下の朝鮮の女性たちをかつて突然当局者が襲い、強制連行して従軍慰安婦にしていたというその実行者の証言は実は虚偽だったと認めた。が、その証言を取り上げた関係記事をすべて取り消すことを明らかにしつつも、内外に深刻な影響を及ぼしてきたその虚報を、そもそも裏付けも取らずに紙面に載せ続け、その報道に各方面から疑問が高まってからも長く放置してきたことに一言の詫びもなく、問題は、長年にわたり報じてきた官憲の強制連行ではなく、慰安婦が存在したというそのことであると話をすり替え、開き直っていたのである。
 この威張り返った、そして物事をごまかす態度に愕然とした。私はこの特集を見て、この新聞社は、(中略)この八月五日をもって最終的に新聞の実質は終わった、崩壊した、と感じた」

20190517

その動画は YouTube で、いまも消されず残つてゐて、見ることができる。いつ消されるかわからないが、しかし動画のアドレスだけは貼つてをく。この会見を見た人も見なかつた人も、時間を置いて、いま一度、時の一コマとして見ると、客観的な見方をもたらすのではないか、さうしてもう一度考へる機会が得られるのではないかと思ふ。

https://www.youtube.com/watch?v=sPeXA9w1Bys

このやうな長いまえがきをなぜ引用したかといふと、朝日新聞の本質、特徴を示す三つの言葉が散りばめられてゐるからである。
一 裏付けを取らない
二 一言の詫びもない
三 ごまかす態度

この三つの態度は戦前から戦後になつても終始一貫して不変である。戦前あれだけ国民を戦争に向かつて焚きつけておいて、敗戦直後、臆面もなく、掌を返し、百八十度轉換しての再出発にあたつてのレトリック「国民と共に起たん」も、ごまかし態度の典型である。

さらに、慰安婦補償に関しては日本国民の税金が費やされてゐる。この費やされた金に対しても禁忌にして触れてゐない。本来なら朝日新聞社が総額国民に返金して当然の金である。











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# 元号の意義 lundi 6 mai 2019
元号のはじまりは、紀元前百四十年、漢の武帝の「建元」がはじめとされる。武帝の影響下にあつた人々はこの元号の元で生きたであらう。

日本の国号、王号、元号は、日本の最初の元号「大化」に遡るとわかる。白村江の敗戦後、倭国は防衛のためにそれらを三位一体のやうに整へた。大化以前に国号日本はなく、大化をもつて日本がはじまり、さらに王号、元号がはじまる。それ以前の日本は、魏志倭人伝からもわかるとおり、倭国であり日本ではなかつた。

欧米の年号は西暦で、西暦は紀元前、紀元後、に分かれる。紀元前はBC、紀元後はADが使用される。BCは Before Christ、ADは Anno Domini と学校で教へられるところである。

紀元前の時間と紀元後の時間には決定的な相違がある。 AD の名称からもわかるやうに、時間は神に属するものになつた。その証左は、時を告げる教会の鐘楼である。

20190506

シェークスピアの『ヴェニスの商人』、これはキリスト教教会が時間を管理してゐた時代を背景にしてゐる。その神聖な時間を利用して商人が金儲けをすることは。不敬で許されることではなかつた。だから判決はあのやうな不可能なことになる。

時間を神から人間の手に委ねたのは大航海時代である。航海の安全と実利を確実なものにするのに、海図の必要性が生まれ、精度の高い海図を作るにはより精度の高い時間が求められるやうになつた。かういふ時代の実利的要求に応へて時間が神のものから人間の手に移つて行つた。

日本が西暦を知るのは、江戸時代終焉以降で、一世紀強といふ短い期間でしかない。それ以前の日本はと言へば、太陰太陽暦の旧暦を使つてゐた。また元号は七世紀半ばから用ゐられてゐた。

20190506

いま元号は不要といふ人々がゐる。しかし、さういふ人々に熟考してもらひたい。千年以上も続き、日本独自なものを育ててきた伝統の元号をなぜ消し去らうとするのか?単に煩雑だからといつて、消し去らうとするのはこれまで形成してきた文化の放棄、抛擲、抹消でしかない。それにわれら日本人の自己放棄、自己喪失、自己壊滅でしかない。

世界基準なるものに基づき、度重なる計量法の改正で、われら日本人は独自な尺貫法などを失つた。そのことで日本の人々は、日本の文化はなにを失つたか。振り返つて、イギリスやアメリカなどは、インチ、フットにはじまり、独自な単位を守り続け、現在も使用し続けてゐる。これはなにを意味するのか。

単位にも独自な文化が詰まつてゐる。元号は尚更である。元号には時間だけでなく、その時代の多種多様なものが詰まつてゐる。それをなくしてしまふとなにを喪失するか、熟考してみる必要がある。










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# 民意は多様といふ類ひの騙(だま)し文句 vendredi 19 avril 2019
『日本の長い戦後』の言ひ残しの蛇足編として、これを書く。

言葉は常に危険と背中合はせである。事実を告げるかと思へば虚僞をも告げる。虚僞と事実は紙一重、事実を告げながら虚偽を告げて他人を欺く。

人は言葉で騙す。人は他人(ひと)を騙すつもりで、自分をも騙す。言葉を生業にしながら、言葉をもてあそぶ愚を恬然とやつてのける輩がゐる。

かういふ輩は、夜毎日毎、『クリトン』を何千回、何万回、くり返しくり返し読んでも、ソクラテスの言葉は毫末も届かない。言葉が届かないのだから、理解など以ての外である。

20190419
   < この木や鶯、だれのためでもない、ただ自らのために生きてゐる >

さういふ輩に限つて、「民意は多様」「広義の強制性」「国民と共に起たん」などと小賢しく嘯いて、虚勢を張つてみせる。挙げ句の果ては、その虚勢で人の心も弄ぶ。さういふ如何ともしがたい輩が夥多とゐる。

期待など夢のまた夢だが、この輩に、もし万が一、ソクラテスの言葉が届きでもしたら、ソクラテスの覚悟の前に、赤面して、生きていけなくなるだらう。










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# 『日本の長い戦後』 その七 mercredi 17 avril 2019
この『日本の長い戦後』を読みながら感じたことは、この著者も、大多数の定期購読者と同様、朝日新聞の報道を信じてきた被害者だ、といふことである。それだけでなく、不憫にも、いまも朝日新聞信奉者である、といふことである。

日本の報道企業はどう考へても朝日新聞を頂点にした競争のない独占企業である。だから報道されたことを信じるのではなく、吟味してみる必要がある。

吟味の仕方は多種多様にあるが、最大の効果が期待できるのは、E.T.ホールの『沈黙のことば』を持ち出すまでもなく、時間のなかに置いて、時系列に沿つて、吟味することである。

吟味が、過去に遡り、その奥行きが深くなればなるほど、埋もれてゐた過去の事実を知ることになる。さうすればするほど、意図的に消されてゐた不都合な事実が明らかにされる。さういふ事実を時系列に並べると、それだけで隠されてゐた事実が語り出す。

前坂俊之の『大平洋戦争と新聞』(講談社学術文庫)を読む。せめて文庫版前書きと第一章を読むだけでも、過去の新聞の報道の一面を知ることができる。と同時に、現在の新聞の置かれてゐる現状を念頭に置いて、過去の記事を読むと、本質は微動だにも変はつてるゐないのが明らかになる。さうして現在も自分で、自分の首を絞めてゐる図柄が浮かびあがつてくる。

日本の新聞は機関紙「しんぶん赤旗」と同類である。多くの人が信じてゐるやうに、新聞は、民衆が考へるために、考への基本となる情報を提供してゐるわけではない。戦前は右にすり寄り發行部数を増やして金を稼ぎ、戦後は権力を監視すると主張して、發行部数をゆるぎないものにして金を稼ぐ。つまりはどちらに転んでも情報で稼ぐ銭ゲバに過ぎない。

20190417
   < 美しい日本の その一 >

「ソクラテスの弁明」と対になつて「クリトン」がある。ソクラテスは、法廷での釈明にもかかはらず死刑を宣告される。牢に入つてゐるソクラテスのもとにクリトンが来て、宣告に従ふ必要はないと脱獄を勧める。しかし、それを断りソクラテスは刑に服する。

新聞が銭ゲバたる銭ゲバの所以は、敗戦後の再スタート時の詭弁ーー「国民と共に起たん」ーーに全てが集約されてゐる。国民を騙し戦争へと煽つた新聞が「国民と共に起たん」といつて詭弁を弄する。ソクラテスは毒をあおり、自らの命を絶つた。かたや言ひ訳をし、詭弁を弄して、現在今日も醜態をさらけ続けてゐる日本の新聞。時はそれを語つてゐる。

さてその証拠を『日本の長い戦後』の「語らない父」に見ていく。

この「語らない父」といふ見出し、それだけで、戦争に行つた父は、すでに断罪されてゐる。戦争に行つた父は、戦争を「語らない」後ろめたさをもつ人として、裁かれてゐる。しかし至極あたりまえに考へて、国民の義務として戦争に行つた父がなぜ裁かれなければいけないのか。

本人の意思とは無関係に、戦争といふ殺戮の日常に直面させられた父、その父たちが、さらに戦後、戦争を語らないといつて断罪される。なぜ、さうされなければいけないのか。それに異常な体験をしたからといつて、だれもがその体験を語るだけの能力を備へてゐるわけではない。

山本七平のやうに語る能力がある存在は稀有だ。ほとんどの人が語る能力をもたない。それが事実である。また、語るには聞き手の存在も欠かせない。聞き手の存在があつて、はじめて語りが存在できる。それはユダヤ人狩りに遭遇しなければならなかつたボリス・シリュルニクの作品『憎むのでもなく、許すのでもなく』を読めば、語りの困難さが理解できるであらう。

丸谷才一の作品に戦争を拒否し、兵役の義務を忌避した人間を主人公にした作品がある。作品はそれで作品となり得るが、作品にならないもう一つの現実に光をあてたとしたら、作品はもはや作品とはならないだらう。しかし現実の全ての出来事は、人の思惑とは無関係に、常に、次元の異なるものでありながら、それでも尚且つ同次元で、混在しながら、同時進行してゐる。

丸谷才一の戦争を忌避した作品の語り手、その人にしても戦後雄弁であつたらうか?

20190417
   < 美しい日本の その二 >

来る年も、来る年も、八月になると敗戦企画がなされ、十五日のその日に合はせて記事を募る。毎年おなじ論調の懺悔の掲載では、飽きられてしまふし企画にもならない。読者に作爲が気づかれてしまつては元も子もない。だから、あれこれ基準を変へる。

ちようどパソコンのOSが新しく変はるやうにである。OSが入替ると周辺機器もOSに合はせて更新の必要が生じる。更新しなければ、周辺機器は使用できなくなる。新聞に掲載される記事も、設けられた基準、OSを満足させなければならない。そのために、そこで何がなされてゐるか。応募者は、基準に合ふやうに、自分の記憶の書換へを行なつてゐるのである。

さういふことからもわかるやうに、掲載される応募記事の実態は、もはや記憶ではない。基準・要請に合はせ、掲載されることを望み、忖度して作られた体裁のよい僞作物である。新聞に掲載されるものはその僞作物の羅列でしかない。それを整理整頓して、分類分けして、見せてみて、そこからなにが生まれるといふのか。

『日本の長い戦後』をもたらしたものがなにか?だれがさうさせたのか?その原因を究明しない限り、『日本の長い戦後』の呪縛からの解放は望めない。



蛇足:「新聞」で連想すること
新聞は、新聞といふ仮面を被つて、これまで「報道しない自由」と嘯いて、恣意的な報道で人々を騙し、意図的に人々を操作してきたのではないか?

人々は、これまで「新聞」の記事を、共産党員でない人が「しんぶん赤旗」の記事を読むやうな批判的態度で読んできただらうか?

逆に、人々は「新聞」に書かれた報道は、絶対的で、無条件に、正しいと信じるやうに教へられてきたのではないか?

権力を監視すると言ひながら、新聞そのものが最高の権力であり続けてゐるのではないか?






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# 『日本の長い戦後』 その六 jeudi 28 mars 2019
チャーチルでもない、スターリンでもない、ことルーズベルトの読み直しをと意欲すると、「歴史修正主義者」と負(マイナス)のレッテルが貼られる。日本語でハーバート・フーバーの『裏切られた自由』(草思社)が読めるやうになつたいまでも、それは、ある勢力下で、オウム真理教の残滓のやうに、厳然と続いてゐるのではないか。

歴史は、学問として、資料が見つかつたり、未公開だつた史料が公開されたとき、あるいは新たな文脈から、修正され、読み直されるのが本來の姿である。歴史修正主義のやうに、言葉が、いままでと異なる特定な使はれ方をするとき、そこには、直視に耐経ない不健全な狂信に従ふ人々の群れが見えてくる。

歴史修正主義者といふ非難のこもつた名前の誕生は、ルーズベルト神話保護のためだけに考案されたものである。岡田英弘もアメリカ留学中に目撃したその時の様子を著作集に記してゐる。

言葉の言ひ換への悪用例はこれまでにもある。たとへば、かつてアメリカの国是は他国に干渉しない、非干渉主義だつた。しかし、この国是が、第三十二代アメリカ大統領F.D.ルーズベルトの政権下で、孤立主義と言ひ換へられた。アメリカは世界の孤児になるとまことしやかに言はれた。

もちろん、目論見通り、その先には期待した戦争が待受けてゐた。

いま現在でも、言葉の操作は日常茶飯事である。

日本国政府の借入金を国民の借金といつて日本国民を騙すのもその例。無責任に、借金のツケを孫の代まで残すといつて、公然と国民の不安を煽る。それも公器だといつてよい報道機関があらゆる手段を使用して。

同類のことは、探すまでもなく、いくらでもある。

最近実施された沖縄の基地移設の是非を問ふ県民投票も「移設」を「建設」と言ひ換へて、情報操作をしてゐる。反対の民意を得るために、この民意の「民」も信用できないのだけど、五億円といふ巨額を喜んでドブに捨て、日本国よ貧乏になれ!と言はんばかりに、分限を超へた、無責任で無駄な県政が行はれてゐるの放置されてゐる。

20190328

これもリベラルを名乗る沖縄の二紙が、だれ憚ることなく、関与して、紙面をつかつて公然と情報操作する。情報操作、本来これは民主主義の破壊、否定である。

さらにそのうへを行き、手本を示すのが、著者個人と出版元に対して、五〇〇〇万円の訴訟を起こした朝日新聞である。これが報道の雄のすることかと思ふと、あまりの次元の低さに、情けなくなるばかりだ。「メディアはメッセージ」を巧妙に悪用して、民主主義の破壊に寄与して餘りある。

権力の監視を高らかに宣言する朝日新聞。その一方自らの権力乱用は不問にする。気違ひに刃物。(キチガイは差別用語で使用できない?)それなら精神異常者、精神破綻者に刃物と言ひ換へやう。

『日本の長い戦後』の結論からもわかるやうに、この本は、結局、トラウマを、誠実に、飼ひつづけませう、といつてゐる。朝日新聞の投稿記事を信じて使ふとさうなるのは必然で、残念ながら研究書に値しない。

八月十五日よ、飯の種の日よ、トラウマの日よ、永遠なれ!朝日新聞を雄と仰ぐ独占企業体質の日本の報道機関はすべて、朝日新聞へ右へ倣へ、である。
『憎むのでもなく、許すのでもなく』の本の元名は『 Sauve-toi, la vie t’appelle 』(自らを救出せよ、人生がお前を呼んでゐる)である。心的外傷の治癒を問題にしてゐる。さうして心的外傷を治癒するには「理解する」必要を解いてゐる。なにを理解するかは、各人がこの本を読む以外にない。

著者ボリス・シリュルニクは、この本で、つぎのやうに紹介されてゐる。五歳のときユダヤ人一斉検挙により両親を失ふ。本人六歳のときフランスの警察に逮捕され、強制収容所、移送寸前で逃走。戦後、逆境にも関はらず、パリ大学医学部に進学、精神科医となる。トラウマ研究の権威。

一方『日本の長い戦後』の方は、悪いのは我々、先祖の悪行からも我々は逃れられない。だから許されるまで誠心誠意、永遠に謝り続けませう、さうすれば「トラウマ」も治るから、と、不毛で不必要な誤りを強いる。朝日新聞を信じ、そのお先棒を担いでゐると、さうならざるを得ない。











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# 『日本の長い戦後』 その五 lundi 25 mars 2019
日本の既存の報道機関の本性は、要するに金儲け主義、事実報道よりも扇情的で興味本位主義。今も昔も人々を煽つて金を儲けることが仕事。つまりはイエロー・ジャーナリズム、赤新聞となんら変はりない。

『太平洋戦争と新聞』(講談社学術文庫)を読んでも、その本性が窺へる。反省と言ひながら、テンプレートは、不変で、そのまま。そこへ、生コンのやうに、時代の言葉を流し込んでゐるだけ。だから、いくらでも生産できる。
思索や思考の痕跡を探しても、それだけ無駄な時間を費やして終はることになる。朝日新聞や毎日新聞の戦時社説と、それぞれの新聞の今の社説と読み比べてみるとよい。厚顔な断定コトバが、恥ずかしげもなく、鎮座、横溢してゐる。

本来ジャーナリズムとは、つぎのやうなことを目指すものではないか。民主主義を成就するために、人々が考へるために、信頼しうる資料となるために、裏付けされた情報を、右左の関係なく、より具体的に、知らせること。

日本に権威主義が蔓延る。その元凶が朝日新聞。

その昔、御茶ノ水の丸善で、「これ書評に取りあげませうかね、先生喜ぶでせうね」さういふことを耳にした。それを今でも覚えてゐる。その本は新聞の書評欄に掲載される。つまりは大丈夫だといふハンコが押され、評価が定まり、売れる、といふわけだ。社名を名乗り、名前を告げ、名刺を差し出し、挨拶するのをそれとなく、偶然、その場に居合わせ、目撃した。

それこそ、そこに自然発生的に忖度が誕生する。それが続けば、続くほど、書き手は新聞社の意向に沿つたものを書くやうになる。そこに委員会ができ、その人たちの選択眼で選ばれ、傾向は固定化していく。購読者は掲載されたものを、ほぼ無条件に信じ、購入し、読む。

20190325

情報社会のいまでも、書店に行くと各新聞社の書評ページが貼られてゐる。需要に応へるために、さういふ供給をしてゐるのである。

あるとき、知人の別荘に招かれ、そこで壁一面、本の埋まつた背表紙を見る機会があつた。そのとき、その書架には、自分の手元にあるものと、ほとんど同じ本が並んでゐた。つまりは知人も自分も書評に掲載された通りの読書を、嬉々として、善として、無意識下で、してゐただけなのだと、思ひ知らされた。

つまりは新聞社の思惑通りの読書しかしてゐなかつたことを思ひ知らされた。要は日本のインテリゲンジャも所詮新聞社の子飼ひ、新聞社の手のひらで踊らされてゐるのである。まづ、それに気づかないのだから、そこを抜け出すことはできない。

毎年八月になると、無理にでも、必ず思ひ出さされる戦争のこと。毎年決まつて懺悔させられる。しかし八月十五日が過ぎれば、途端にその類いの話は、時期外れとして、相手にされず、雲散霧散、消えていく。以降話題にすること自体禁忌(タブー)となる。特権階級の住み心地の良い村社会では自己犠牲して禁忌を破る者など存在しない。

『日本の長い戦後』を読んでゐて、違和感で堪らず、以前読んだ『憎むのでもなく、許すのでもなく』(吉田書店)を取り出し、拾ひ読みをはじめた。

この本を未読の人のために、帯に書かれた文章を紹介しておく。

1944年1月、ユダヤ人一斉検挙の犠牲となった6歳の著者は、収容所に送られる直前脱出する。戦後もまた辛く長かった・・・・。沈黙し続けてきた自らの壮絶な物語を静かに紡ぎ出した1冊。精神科医の立場で、トラウマから逃れる方法も多角的に分析。

二冊の本はつぎのやうに終はつてゐる。

新しい世界秩序に必要なのは、歴史に起因する感情的なわだかまりが事態を膠着させている現状を打破すべく、創意を生かして譲歩と妥協を実現することだ。私たちにとってそれは、第二次世界大戦について日本を有罪とするか無罪とするか曖昧にした。不定形の中間地帯にある快適な安全地帯から勇気をもって出ていくことを意味する。そしてその勇気に報いて、かつての敵や被害者は、日本を赦すという可能性を模索しなければならないだろう。

20190325

・・・中略・・・
トラウマの記憶は、ばらばらなものを統合する可能性も、まとまっていたものを分断する可能性も宿す。解消されないまま、見えなくなることもある。しかしこうしたかたちで文化的トラウマが残ることによって、国民としてのアイデンティティは刷新される。文化的トラウマは、次世代が国の歴史を完全に理解することはをむづかしくしているが、人々はそのトラウマがあるからこそ国の未来像を描くための営みを積み重ねていくのであり、その営みのなかで記憶は生きつづけることになる。
                (『日本の長い戦後』P.196 - P.197 )


 私に許しを求めた者は、誰もいなかった。例外は自分たちの祖父母が犯した罪について、いまだに罪悪感を覚えるドイツの若者たちである。なぜ彼らは、私に許しを求めたのだろうか。ある男が婦女暴行の罪を犯したとしても、その息子が刑務所に入れられることなど、ないではないか。
 すべての宗教は、自分たちの近親者が犠牲になった意図的あるいは無意識な悪について、許すように求めている。・・・略・・・
 われわれは、山火事や水害などの自然災害に許しを与える必要を感じない。自然現象に憎しみを覚える者はいない。それは警戒すべき対象だ。自然災害から身を守るためには、自然をうまく制御するために、その仕組みをよく理解しなければならない。それは、加害者を突き止めて断罪する作業ではなく、たとえば自然災害で収穫物を失った農民が、水文(すいもん)学の専門家になることである。
 ナチズムや人種差別について私が思うのは、そのようなことだ。ナチズムや人種差別に加担した人々は、現実から切り離された表象に服従した。・・・中略・・・彼らは、そうした不条理な表象に従うために行動した。彼らは服従することによって団結し、団結することによって自分たちは強者だという感覚に浸った。・・・略・・・
 私にとっての選択肢は、罰するか、許すかではなく、ほんの少し自由になるために理解するか、隷属に幸福を見出すために服従するかである。憎むのは、過去の囚人であり続けることだ。憎しみから抜け出すためには、許すよりも理解するほうがよいではないか。
       (『憎むのでもなく、許すのでもなく』 P.319 - P.320 )


20190325

日本語で表現するとトラウマとは心的外傷。翻訳して漢字で現すと意味が曖昧にならずに済む。さうでないと、都合よく、曖昧なまま、言葉をつかつてしまふ。心的外傷者とは、心に外傷があつて、努力をしやうとしても、また、どれだけ意欲を掻き立て努力をしても、どうしても外傷が邪魔して、あることができない状態の人のことをいふ。そのあることとは、とうぜん、心的外傷をもつ人によつて異なり、多種多様、凡百、複雑怪奇、一様ではない。 

目立つことなく、正常で問題を起こすわけでもなく生活してゐる人のなかにも、心的外傷者はゐる。なにかの拍子に心の傷が疼き、意気消沈、自信喪失、自棄してしまふ人がゐる。

さういふ人に、二つのどちらを選ぶか、と訊かれたら『憎むのでもなく』のほうを選ぶ。なぜなら心的外傷からの恢復は、こちらのほうが期待できるから。


蛇足だが、『憎むのでもなく』か『サラの鍵』か、読んだ前後は定かではないが、これらの作品から第二次世界大戦下のフランスのユダヤ問題を知つた。勉強してゐないので、恥ずかしいが、それほどなにも知らないのが実情である。その無知さにつけ込んだトラウマ洗脳。報道機関の責任転嫁も甚だしい。


                         






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# 『日本の長い戦後』 その四 samedi 23 mars 2019
日本敗戦後七十数年経つた現在でも、韓国が日本に対して要求してくるあれこれを念頭に置いて、『戦争責任と追悼』の、バルトのいふへぼ作家、えせ作者が書いた、意味を持たないプラスチック・ワードの麗句だけでできた文章、その文章を再読してみやう。

 私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる。過去に学ぶことが多いほど、幅狭い了見にとらわれて自らの将来を閉ざすのではなく、むしろ未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が、国際的にも信頼される礎石になると信じている。

どうだらう。なにが見えてくるだらう。「身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が」手に取るやうに見えてくるだらうか?

事前に念密に打合せしたかのやうに、これは韓国の要求と生き写し、瓜ふたつの双子そのもの、ほぼ百パーセント、実に隙間なく重なり合つてゐる。また同様、日本政府のなかにも韓国とぴつたり重なりを持つ人たちがゐる。それは、なにごとにも、政府の判然としない対処を知るとわかる。それは昔からのこと。日本の国民は呆れはててゐる。知られてゐないどこかで、手放せないほどうまい汁を吸つてゐる人たちがその対応にあたつてゐるからだらう。

20190323

ジュンク堂が池袋に進出する以前、駅を挟んだ反対側の西口に芳林堂といふ本屋があつた。そこでの若い女子店員のヒソヒソ話、文庫本の会社別のランクの話がおもしろかつたのをいまでも覚えてゐる。その子たちにとつては、それが最初に覚えなければならない業務知識だつたのかもしれない。

福間良明はマクルーハンの「メディアはメッセージ」を取り上げて、情報を盛るメディアについても述べてゐる。メディアそのものが、認識の仕方や社会編成を変容させていく力をもつてゐることに触れてゐる。

みすず書房から出版された『日本の長い戦後』についても同様のことがいへる。ある程度の読書人にとつて、みすず書房は出版業界のランクの上位にある信用の置ける会社である。そこから出される本は、出版した時点で、それだけの信用性を有するものとして受け取られるし、さういふ見方を受け手に与へ、流通する。ただし内容が硬いから、さほど売れるものではないといふ認識も伴つて。本の装幀も、みすず書房独特の白を基調とした作りになつてゐる。

読み手は、内容以前に、さういふ既知情報を前提として、この本を手にする。だから批判的な視点でこの本を読む人は少ないだらう。メディアはメッセージとはさういふ先入観をいふ。当然先入観が正しいときもあれば、さうでないときもある。

今回は後者であらう。さう考へてゐる。

20190323

トラウマを治療するには、トラウマを惹き起こした原因を特定して、それを治癒する対策を立てることである。ところで日本人として日本で生きてゐると、奇妙な現実を知らされる。

毎年八月になると、必ず戦争の話が持ち出される。仕掛け人は映像メディアであり、文字メディアであり、音声メディアである。さらに奇妙なことは八月十五日を過ぎると、掌を返すやうに、途端に戦争の話が姿を見せなくなり、消えてしまふ。さうして来年の八月まで完全に姿を消してしまふ。

これを日本は何十年と亘つて繰り返してゐるのである。まるで問題が解決してしまふと飯のタネがなくなるのを恐れてゐるかのやうである。だから数年ごとに新しい視点を設けて、そこからの語りが論じられる。つまり新しい話題での井戸端会議がはじまるのである。

「美しい国」の記憶、「悲劇の国」の記憶、「やましい国」の記憶。この記憶の順番を見て何も感じないか?この順番は自然な並びだらうか?メディアの仕掛けを感じないか?戦争に駆り出された人の記憶をどれほど集めても、戦争の真の姿は炙り出せない。それは前にも言つた。

それを承知で、毎年八月になると延々と企画して、戦争に召集された人たちを懺悔させる。この懺悔を見て満足しながら、同時につぎを構想する人たちがゐる。完治しない病は八月十五日を過ぎると放置される。さうして完治しない病は、また翌年の八月前に再発する。実に巧妙に仕込まれてゐる。

八月に特集する戦争ものを二月に特集したとしたら、赤字になると顰蹙を買ふだらう。心底トラウマを治したいのなら、集中治療すればよい。いやこれは不治の病か?不治の病であつてもらいたいのか?

詰まる所、この本を読んでも戦争のトラウマの正体は判らない。正体がわからないから、対症療法も見つけられない。それよりも治療以前に、来年の八月には戦争のトラウマにどのやうな傷口が発見されるのか?この蟻地獄に快感を見出し楽しむ人たちがゐる。









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# 『日本の長い戦後』 その三 vendredi 22 mars 2019
前回は一九九四年『読んでびっくり 朝日新聞の太平洋戦争記事』(リヨン社)が朝日新聞の横槍で絶版にされたことを取り上げた。

それから十三年が経つた二〇一七年、朝日新聞は同様の似た事件を起こしてゐる。すでに昔のことと忘れてゐる人もゐるかもしれないが、俗称朝日新聞五〇〇〇万円訴訟である。『徹底検証「森友・加計事件」――朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪』を巡つて著者・小川榮太郎に裁判を起こし、五千万円の損害賠償を請求する裁判で、二〇一九年の現在も裁判継続中である。

「私たちは「歴史と向き合う」不断の営みが、心を深く鋤き返し、明日への芽を育むことを信じてゐる」のなら、かういふ裁判を起こすだらうか。

「過去に学ぶことが多いほど・・・略・・・未来に対して果敢になれる。また、私たちは私たちたらしめている過去と向き合い、そこから身悶えしながら未来に向かう真摯な姿勢が」あるのなら、かういふ裁判を起こすだらうか。

いふこととやることが真逆である。このことからもわかるやうに、朝日新聞の本性は、拝みたくなるほど不変である。だが、いまはインターネット社会、切り取り報道に泣き寝入りしなくてもよい時代になり、弱者は弱者なりに、被害者は被害者なりに、当事者は当事者なりに、もう一つの事実を発信して、報道されない事実、つまり既存のメディアにとつて不都合な隠蔽された事実を知らせ反撃すことが可能になつてきた。

さらに、もうひとつの隠された事実を知らされることで、反応が生まれ、共感や支援の輪が広がり、その拡大がさらなる広がりをみせてゐるのも事実である。

微弱で微小で微力ではあるが、朝日新聞を頂点とする旧メディアの一方的な報道に疑ひをもち、否を言ふ変化が生まれつつあるのも事実である。さう言ふ意味では、これまでのやうに情報の獨占は許されなくなつてきてゐし、虚僞も露見しやすくなつてきた。

さて『日本の長い戦後』だが、考察対象としてゐるデータは四三〇件。その論考データは朝日新聞の読者欄に掲載されたものださうだ(『日本の長い戦後』三七頁参照)。当然それらには、これまで見てきたやうに、朝日新聞のバイアスーー考へかたや意見や偏りーーがかかつてゐる。

バイアスがかかつたデータとは、朝日新聞が満足し、及第点をつけた、お気に入りのデータである。そこから導かれる結論は、いふまでもなく、朝日新聞の考へ方に合致したものになる。つまりは掲載投稿は朝日新聞が望む予定調和されたものしか掲載されないでのある。しかし、さういふ掲載記事を無限に蒐集しても得られるものはなにもない。

それにマイケル・ポラニーがいふやうに、「部分の総体は全体にはならない」。さらに、筆力を度外視して、書き手の書いたものを全幅の信頼を置いて考察をしても、そこから一体どのやうな結果が導き出されるのか。それは、さうする以前から、すでに明白である。コンピュータの世界でも言はれるやうに、ゴミを入力してもゴミしか出力されないのである。

井筒俊彦が『読むと書く』(慶應義塾大学出版会)でつぎのやうに述べてゐる。

 「書く」といえば、昔流の考え方では、客観的に何かを文字で書きあらわすことだった。頭のなかにあらかじめ思想(私註:書くこと)が出来上がっていて、それをコトバで再現する。内的リアリティとして、コトバ使用以前に確立している「自分」を表現する。あるいは、外的世界の客観的事態や事件をコトバで叙述し、描写する。・・・中略・・・
 ところがバルトは言う、そんなのはへぼ作家、えせ作者のやることであって、真に「書き手」の名に値する、本物の作家のすることではない。真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。・・・中略・・・次々に書かれる言葉が意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する。

時間を経て、戦場にゐたこともない現在に生きてゐる人々が、好む好まざるに関はらず、駆り出さ、戰爭に従事させられた人たちのことを、口角泡を飛ばして、論じ、裁いてみて、一体そこになにが得られるといふのか。それほど人は鈍感で、無責任で、想像性に欠けてゐる。

岡田英弘の著作を読めば教へてもらへるが、国家が誕生するまで、国は存在しなかつた。国家が生まれ、国民が誕生し、国がする戦争に国民が駆り出されやうになつた。さうして国民といふ人々が戦場で敵対する国の人々を殺するやうになつた。二十世紀の戦争は国民といはれる人々が、言葉のレトリックによつて、戦場に駆り出され、戦ふことを強いられた時代であつた。

戦場に駆り出された国民は、どの国家の国民であつても、被害者である。問題にされなければならないのは、戦場に出ることもなく、机上で戦争を準備し、戦争を命じた人間たちである。そのなかには、もちろん戦争を煽つた報道機関も存在する。

それを隠蔽して、臆面もなく、毎年毎年、果てることなく、八月になると、戦争をさせられた国民に、戦争を思ひ出させ、戦争責任を問ふ。朝日新聞はじめ、日本の報道機関のこの卑劣さ、本末転倒も甚だしい。








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