蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 「土人」発言といふ暴力 lundi 20 février 2017
考へることを放棄した教条主義者ほど怖いものはない。

ネット上には、これまで考へられなかつた情報が溢れかへつてゐて、偶然思ひもかけない情報に接したりすることがある。

沖縄の地方新聞の記事もその例に漏れない。最近ネットで新聞記事を見ると以降は登録してとなつてゐて、有料記事になつてゐる。しかし一方では、社説などは、読ませたいのだらう、各社無料でどれだけでも読むことができるやうになつてゐる。「社説一覧」と入力するとそのサイトをみることができる。そこを覗くと社説が好きなだけ読めるやうになつてゐる。

いまでもこれら社説をありがたがつて読む人がゐるのかもしれないが、さういふ種類の人は、おそらく化石時代に属する人なのだらう。どの社説も書き方は一面的で、内容も一面的で、陳腐で、読むに耐へられないものばかりである。第一書き手の高慢な態度が、鼻につく。なぜ命令調の態度をとらなければならないのかわからない。時代錯誤の標本を見せられるやうだ。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを、と書いた学者先生のものも陳腐である。記事は、占師のごとくすべて推測で、これで原稿料がもらへるのだから結構だ。書き手と掲載者には責任がある。その責任はどこにあるのか。記事のどこにも見えてこない。

ネットで、無料で、閲覧できるのだから、引用しても問題はないだらう。

 非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。

20170220
    < おなじヘリパッドでも場所が変はれば >

これは冒頭の部分である。ここで着目すべきことは『「土人」発言という暴力を振るった』といふ箇所だ。「発言を暴力」とするのなら、金網を利用した挑発行爲や挑発言動ももちろん暴力になる。

さうなると「非暴力の闘争」ではなく、「暴力の闘争」になり、また「暴力を使わずに」ではなく、「暴力を使つて」といふことになる。これで、この書き手の理論が破綻してしまふ。それにもかかはらず、かういふ理論の破綻した記事を掲載する新聞社もお里が知れてしまふ。

 猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。

沖縄の基地問題は差別構造に由来するのか。さうではないだらう。地政学的観点に由来すると考へられる。

 もちろん、それが一般化し「沖縄人は土人だ」という空気が広がる可能性もある。その場合、沖縄は独立せざるを得ない。そのときは世界中がそれを容認し、日本は威信を喪失するだろう。だからこそ、ここが闘いどころだ。

この文章が掲載されたのは二〇一六年十月二六日、いまは二〇一七年二月二十日(月)。沖縄の人は土人とみなされてゐるだらうか。「可能性」は残念ながら裏切られてゐる。この書き手の理窟からいふと、土人とみなされるのなら沖縄は独立しなければいけないのだが、土人とみなされてゐないのだから独立の必要性はない。おかげで日本は威信を喪失しなくてもすむ、といふことになる。

まだ少し続きがあるが、あまりにも稚拙なので、もう論じる気もしない。考へることを放棄した教条主義者の陳腐さ、狂信さ、独断さだけが目立つ。可愛さうに、肩書にすがつて、声高に喋つてゐる人間の姿がみえてくるだけだ。

蛇足だが、むやみやたらにカタカナ語を乱用しない。漢字で表現出来るカタカナ語は漢字で表現する。カタカナ語の乱用は日本語の衰退、いや日本文化の衰退につながる。アジェンダとかアクションなんて不要なカタカナ語は使用しない。実際にここに使はれるアジェンダ(議題)は意味不明だ。





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# 言葉尻を捉へた土人発言報道 dimanche 15 janvier 2017
YouTube のつぎの動画で、機動隊員が土人、支那人といつてゐる画像をみることができる。芥川賞作家の目取真俊が撮影し投稿したものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=-SANg73TJJQ 
( 敢へてリンクしません。興味があつたらクリックしてご覧あれ )

ニュース作りーー敢へて「作り」と強調するーーに携はる人たちにとつて、ネタ探しは死活問題だ。そこへこの土人発言。メディアのニュース探し人にとつて、これは千載一遇の好機。案の定、大ニュース、大問題として、扇情的に、煽り立ててニュースに仕立て上げてゐる。

だから思惑通りこの動画を見れば、だれもが憤慨するだらう。さういふ動画であるが、この画像には欠けてゐるところがある。偶然、自然に、抜け落ちたものではなく、敢へて、故意に、削除したふたつの要素だ。作家が投稿したものだ。どこを捨てて、どこを強調するか、編集はお手のものである。

20170115
   < 大地の恵みを吸収すべく根をはつて >

5W1H( When Where Who What Why How )はだれもが知つてゐる。情報を発信するには遵守すべき要素だ。しかしこの動画を見る限り、この中のふたつの要素ーー Why と How ーーが抜け落ちてゐる。それも編集されて、故意に。

5W の Why にあたる、「なぜ土人と発言したのか」といふ Why が抜け落ちてゐる。また1Hの How にあたる、「どのやうな状況下で」土人発言に至つたかといふ How が欠落してゐる。ジャーナリストといはれる専門家が使用する動画としてはお粗末といふしかない代物だ。しかしそれを敢へて使用してゐる。

ニュース作りとして、故意に、これら二要素を無視した作りだ。といふことは、ニュースとしては偏狭で、偏りがあり、煽情的で、動画を見る多くの人に事実を伝へる努力がなされてゐないと見做されても仕方がない。

20170115
   < 冬の陽光を浴びて凛として >

人は知る得る説明や情報に基づいて考へ判断する。普段の平穏な状況下で、一方的に突然土人といはれたのなら、問題にされるべきだ。しかし、さうではない。だのに状況の説明がなされてゐない。これは人の知る権利を妨害し、ある方向に導かうとする意図に基づいたプロパガンダ、つまり政治的意図に基づいた宣伝行爲だ。

賞を取るほどの物書きなのだから、かういふ姑息なことはしないと思ふが、現実は、動画を見る限り、さうでない。物書きの端くれなら、土人発言に至る経過を収録し、どのやうな状況下で土人発言がなされたかを明らかにすべきだ。さうでなければ問題の本質が疎んじられた感情対立を煽るだけで終始してしまふ。

少なくとも、これは報道として動画を採用するメディアが指摘すべき事柄なのだが、いまのメディアにさういふ能力はない。それほどメディアは能力が低下し、異状で、常識が通用しない状況のやうだ。




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# 成人式式典をなくす絶好の機会 mardi 10 janvier 2017
このさい成人式式典をなくしませう、と提案したらどうだらう。新成人かどうかわからないが、昨日九日は、故意に立てる、バイクの、耳をつんざかんばかりの大爆音が、離れた大通りから家の中まで飛び込んできた。

グーグルの国際ニュースを見ても、新成人のトラブルニュースの見出しが目につく。国際と名がつくのだから、本来国際的でないニュースは掲載しないのではと考へるのだが、なぜか国内三面記事ニュースも混入されてゐる。

国際と名を打つのなら、その名の通り、世界の文脈から日本を知ることができる国際ニュースがあるべきなのだが、さういふものは期待できさうもない。表示の仕方も、国際情勢を知る優先度が重要視されてゐるわけでもない。この記事ーー高齢者乗せタクシー27時間不明鹿児島、運転手が意識不明ーーのどこが国際ニュースになるのか知らないが、国際ニュースの上から四番目に表示されてゐる。

新成人にまつわるトラブルニュースも国際ニュースとして扱はれてゐる。理解に苦しむ。ところで法律では、十八歳に選挙権が付与され、十八歳は成人として遇されてゐやうになつた。しかしもう一方では、旧来通り、二十歳が成人としてみなされ、公共施設で、市長や国会議員など政治家といはれる人々が出席して、公的に成人式が行はれてゐる。

20170110
   < 柊の花 美しいものにはトゲがある >

商売が成立つこともあるのかもしれない、またさういふビジネス筋からの嘆願や圧力があるのかもしれない。なぜならこれらの人々も有権者だから、政治家連は怖いもかもしれない。されはさうと、成人のこの問題、矛盾には蓋がされたままだ。

必ず成人式を行はなければならないのならば、成人年齢が、法律で、十八歳に引き下げられることが決まつた時点で、十九歳になる人も、二十歳を迎へる人も、成人式を行へばよかつたのだと考へる。

なにも対処しないから旧弊は旧弊として残つたままだ。十八歳は政治家のエゴのために、二十歳は商売人のエゴのために、成人として祝はれることになつてゐる。ほんとうに祝ふ人々に祝ふ氣持があるのだらうか。大いに疑問だ。

いつものやうになにも対処がなされない。矛盾状態が放置され、そのために、日韓の慰安婦問題のやうに、後々まで残る問題になるかもしれない。



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# ボブ・ディランとノーベル文学賞と夏目漱石 mercredi 23 novembre 2016
二〇一六年のノーベル文学賞は、かつていはれたやうにフォークシンガーといふのか、いま風にミュージシャンといふのかしらないが、アメリカのボブ・ディランに決まつたさうだ。

なんの賞でもさうだらうが、一般的に、発表するまでの手続きは、断られるといふことも考慮して、事前に本人もしくは関係者に連絡があり、受賞の意思を確認して、それからといふことになる。ノーベル賞に関しては、他の賞とは異なり、報道を知る限りでは、決定した当日に連絡をとつたさうだ。

比較の対象にならないが、思ひ出されるのは、桑田佳祐の紫綬褒賞の受賞。年越しライブでの一連の出来事ーー紫綬褒章を尻のポケットか取り出し、モノマネをして笑ひをとつたさうだ。

その後、その行爲にたいしてなされた批判、それをことなきに収めるためと解釈される釈明文。受賞に至る一連の手続きを考へると不可解な行動をしたものだと思はれる。真意は測りかねるが、手続きとして、受賞の意思を尋ねられ、それを受諾したのだらう、さうでなければ受賞はない。

しかし、それにもかかはらず、知る限りでは意味のない半畳を入れ、おまけに釈明文まで公表したのだから、一連の手続きを知る人から批判がでるのは当然だらう。

さてボブ・ディランに戻つて、報道はそのときの状況を、ボブ・ディラン本人は「寝てゐる」といふことで、直接電話口にでなかつたと告げてゐる。以來ボブ・ディランと連絡が取れない状況が続くなか、ノーベル財団事務局は連絡を取るのをやめた、と報道がなされた。

この状況に関して、さまざまな憶測があつた。が、このままボブ・ディラン本人がなにも発言しなければ、授与式のある十二月十日を待つより方法はないだらう、といふことになつてゐた。

20161123
   < ものは見方次第 >

しかし十月二八日、ボブ・ディランは口を開き、ノーベル文学賞に対する態度を明らかにした。それまでの間、つまり無言期間の十月十三日から二八日までになされたさまざまな発言が興味深い。これもまた一個人の憶測にしか過ぎないが、もつとも興味深いのは選考委員長本人のボブ・ディランにたいする「無礼で傲慢」だといふ発言だ。

なぜ「無礼で傲慢」なのか。「無礼で傲慢」なのは、立腹する発言者本人ではないだらか。

発言者本人からしてみれば、「ノーベル賞」はたとへどんな人間でも、素直に嬉々として喜び、無条件に受け入れる権威ある賞だ、それを疑はない、といふ狂信に似た確信があるのだらう。それを保留にされたことが信じられなかつた。だから、導火線に火がつき、この発言の爆発につながつたのだらう、と思はれる。

興味深いもので、約二週間のボブ・ディランの沈黙は人間模様を見せてくれました。さういふ意味で、考へる契機となつたボブ・ディランのこの沈黙に深謝してもいいでせう。

もし選考委員長本人が稀に見る謙虚な人であつたのなら、この沈黙から最大の恩恵を引き出し得たのは、委員長本人をおいて、だれもゐなかつただらう。つまりこの沈黙で、考へることの根源に立ち戻れたのは委員長本人をおいて存在しないのだ。

委員長は、もう一度、「権威とは何か」といふ問に立ち返れることができただらう。現在ノーベル賞の権威を疑ふひとはだれもゐない。それを承知で、この権威の由来は、この権威の正体は、この権威は、と疑問を呈し、再考したとしたらだらう。

仮に、権威の由来は賞金の額だとみなしたら、どうだらう。日本円に換算すると一億円近い賞金額が権威を成す、権威とみなされるといつてもあながち間違ひとはいへないだらう。もし賞金をなしにし、顕彰にとどめたとしたら、ノーベル賞の権威は不変だらうか。不変だとしたらこれほど素晴らしい賞はない。しかし、それはあり得ないことだらう。

20161123
   < ものは考へ方次第 >   

三文映画で題名も忘れたが、しかし、その映画で記憶に残つたセリフ
ーー「本物の人間になりたければ本物の革命家になれ」。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を契機にして、注意を拂つて、考へてもいい言葉ではないだらうか。

なにものにも多面性があり、言葉もその例外ではないのだから、ただ単にニュースに反応するだけではなく、多面的に、自分のこととして思へるのもひとつだ。

夏目漱石( 1867 - 1916 )四十四歳のときにおきた、博士号をめぐつての文部省との事件がある。あくまでもアジアの一国内の出来事で、今回のボブ・ディランのノーベル賞のやうな規模ではないが、それでも、この出来事の詳細を知ると興味深いものがある。

これも文部省の勅令で、漱石の関知しないところで、一方的に決められ、新聞紙上に発表されたことで、それを知つた漱石の辞退である。ここには当時の文部省の、その役人の傲慢の一端も窺ひ知ることができる。

つまりは漱石は文部省の権威を認めなかつたのだ、と考へられる。文部省の勅令に従ふことは、単に手続き問題などではなく、それ以上に漱石には我慢ができなかつたことがあつたのだらう。

権威を認める認めないは、それを上に置くか下に置くかであり、それによつて、それ以降の振る舞ひも影響されるのは当然だらう。

漱石は、さういふ権威を、国家の威信を、わが頭上にいだきたくはなかつたのだらう。だれにも、なにものにも拘束されることのない自分でゐたかつたのだらう。「本物の人間」をめざしてゐたと推測してもいいだらう。







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# 十月は神無月 lundi 3 octobre 2016
十月になりました。

ときには「神無月」といふ言葉を思ひ出してもいいのではないか、といふ思ひが浮かびました。

さらに前後の月の日本独自の呼称を思ひ出すのも、いまでは一興か。

20161003

九月は長月(ながつき)、十一月は霜月(しもづき)。

いまはだれもが疑ひもなく機械的に数字で月を表しますが、かうした日本独自の呼称を思ひだすと、途端に抽象が具象に変貌し、手触り感が出てきます。

20161003

まるで、音訓読みのやう。数字で表す月が「音読み」の抽象世界、日本独自の呼称の月が「訓読み」の具象世界。

ときにはかういふことに思ひを馳せるのもいいのではないか。





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# 蓮舫、山尾、この人たちも政治の破壊者 vendredi 30 septembre 2016
ネットでニュースに目をとおしてゐたら、みたくもない、蓮舫の発言記事があつた。最初に感じたことは「よくいふよ」といふ呆れた思ひだつた。

「責任を取ることは当然だが、どういう意味合いで発言したのか、明らかにしていただかないと(いけない)。クビを切ったから、なかったですよという話にはならない」(産経ニュース(9/30)だけがここまで書いてゐた)

先日まで台湾と日本との二重国籍問題であれこれ報道されたゐた蓮舫議員。その舌の根が乾く間もないうちのこの発言。これはそのまま本人に返つてくる。それに氣づかないほど愚かなのか、この厚顔無恥な民進党代表は。

問題が起きると結末はいつもおなじ。はつきりとわかりました、理解できました、とふのではなく、国民のだれ一人として首肯できないまま、あへて承知のうへで、曖昧模糊、有耶無耶、正体不明になつて終はりといふ幕引きばかり。

蓮舫議員の二重国籍問題の説明、一体国民のどれだけの人が、理解して、納得してゐるのか。

大多数の国民が、説明とは裏腹に、納得してゐないのが現実だ。

20160930         
  < 自然は、だれが見てなくても、務めを遂行する >

保育園問題で「日本死ね」で烈火のごとく、追求の先頭に立つて、国会で熱弁を振るつた山尾志桜里議員、地球五周分のガソリンの問題がでると、途端に豹変して、釈明会見も有耶無耶にして、問題の幕引き。

この二人に共通してゐるところ。攻めるときは、徹底的に、どぎつく、攻めたてて、これでもか、これでもかと、ぐうの音もいはせず、エゲツなく攻めたてる。

一転、矛先が自分に向くやうな事態が発生すると、玉虫色、曖昧模糊、詳細を調べさせていただき、報告させていただきますと、見てくれだけは卑下てみせて、ひたすら逃げの一手。言葉だけは謙りくだつてみせるが、だれもみてゐないところでは、真つ赤な舌をペロリと出して、平然と国民を裏切り、うそぶき、騙して、バカにしてゐる。

これでは、だれも信用しなくなる。政治の不信のタネを蒔いてゐるのは、なにも与党に限つたことではない、野党の花形議員としてメディアに持ち上げられてゐるこれら輩も不信のタネを蒔いてゐる。結局はおなじ穴のムジナに過ぎない。

蛇足にもう一言。
国会は女性議員のファッションの場ではない。目が腐るやうな、見たくもない三流以下のファッションに汲々とする時間があるのなら、ビジネススーツに身を固め、誠實に、政策論争を行ひ、国民に問題を氣づかさせるために、理解させるために時間を費やしなさい。それが政治にかかはるひとの務めである。






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# すべてが有耶無耶の上で成立する国、ニッポン mardi 20 septembre 2016
東京都庁は豊洲市場問題で大揺れである。ニュースを覗けば、見たくはなくても、どこもかしこも豊洲問題ばかり。しかし、だからこそ、間違ひなく、この問題は有耶無耶になつて終はるだらう。犯人もゐなければ、責任をとる人もゐない。都庁のシステムの缺陥さへ問題にならない、だらう。
さういへば、軽自動車で地球五周分、二百三十万円相当のガソンリをつかつたといふ民進党の衆議院議員、山尾志桜里がゐる。この問題もメディアで騒がれたが、結末は有耶無耶のままである。当の本人は責任などどこ吹く風のごとく議員を続けてゐる。

この山尾志桜里が注目を集めたのは「保育園落ちた。日本死ね」を国会で問題にしたのが始まりだと記憶する。しかし、地球五周分のガソリン代問題が浮上すると、なぜか「保育園落ちた。日本死ね」問題も尻切れとんぼになつて終はつてしまつた。

日本の議論で致命的に欠けてゐるものは、カナダに住む渡辺惣樹が『アメリカの対日政策を読み解く』のなかで指摘するやうに、クロス(反対尋問)制度の欠如である。

クロス(反対尋問)とは、問題になつてゐる事柄が、議論に相当するかを判別する制度である。この反対尋問を通過することで、はじめて問題の俎上にあがることが認められる、といふものである。

もしクロス(反対尋問)を通過しないものは、議論の対象にならない、さういふ決め事が共有されてゐる国と、さうでない国の違ひは歴然としてゐる。

20160920

クロス制度の導入を大前提とすれば、国会での時間の有効利用になる。つまり国民の税金の無駄使ひをしないで済むやになる。

クロス(=反対尋問)を経ないことで大問題になつたものがある。慰安婦問題だ。いまは「慰安婦問題」となつたが、それ以前は「従軍慰安婦問題」だつたのは、だれもが知るところだ。

あれだけ長期間にわたつて問題になつた「従軍」が、かくも簡単に、「従軍」の二字が消える。ここにこの国のメディアの有耶無耶性がある。それだけに限らずこれを許してきた国にも、政治に携はる議員にも有耶無耶性がある。有耶無耶を許す国民にも責任がある。

この問題でだれが責任をとつたのか。だれも責任をとつてゐない。かういうふ有耶無耶が平然と許される国、ニッポン。それが法に基づいた近代国家といふのだから、嗤へる。

もし慰安婦問題が問題になるとき、クロス(=反対尋問)の手続きを経てゐたら、逆に問題として取り上げた福島瑞穂の責任が問はれたはずである。しかし結果からみれば、この従軍慰安婦問題で福島瑞穂は国会議員になり、こともあらうに、ひと財産築いたわけである。





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# 言葉が色づけされ意味が変はるとき mercredi 31 aout 2016
世界の警察アメリカ
アメリカが世界の警察をやめるさうだ。それに対して、日本では喜ぶのではなく不安の声がきこえてくるやうだ。ほんとうなら喜ぶべき事柄だと思ふのだが、この自分のなかにも風評にあるやうな不安があるのも事実である。これまで他力本願が当たり前だとして生きてきたからだらう。

アメリカが世界の警察であることがそれほどいいことなのだらうか。アメリカが世界の警察であつたことの実態はなんだつたのか、アメリカが世界の警察であつたことの意味はなんだつたのか、再考してみる必要があるだらう。歴史家に限らず多くの人がはこの問題を考へる必要があるだらう。

いつ世界の国々がアメリカを世界の警察になるやうに承認したのだらうか。第二次世界大戦後に、アメリカが自らさう自称して、世界の国々に認めさせてきたに過ぎない、それが実態だらう。

しかし、なぜさう自称したのか。考へるに、世界に植民地が蔓延した時代のイギリスの座が欲しかつたからだらう。かつて資源国を植民地化して、資源を仕入れ、自国で生産した工業製品を輸出して世界を支配下に置いてきたイギリスにとつて代はりたかつたのだらう。

20160831
   < わたしは警察官だ >

非干渉主義から孤立主義へ
アメリカは、第二次大戦以前は諸外国に関して、干渉しない非干渉主義を国是としてゐた。現実的には、国の成立過程にあり、干渉するだけのものがなかつたのが実情だらう。しかし政治状況に変化が生じるとアメリカでは、非干渉主義を孤立主義として非難するやうになつた。立ち位置を変へるために言葉が色づけされた好例である。

いまは歴史修正主義の言葉の意味が変へられてゐる。歴史は、本來新資料の發見とともに、新しい見方、新しい意味が見出されてきて当然である。したがつて、ときによつては正反対の歴史になる場合もある。これが歴史の姿だらう。

しかしいまや歴史修正主義者は悪者である。主義主張が入り込むことによつて、本來の意味を無視し、あげくに別の意味を付与してしまつたのである。もちろん新資料は精査されなければいけない。さうでないと歴史修正主義者を悪しざまにいふ都合主義者と同類になつてしまふ。

20160831
   < わたしはアメリカだ >

盲信の落とし穴
言葉は生き物で、時代とともに、時代のなかで、変遷してゆくものだが、政治色をもつて変へられて行く場合もある。変へられると不都合な人たちがゐるからである。時として、どういふ人でも、集団化すると集団の一員に成り下がり、黒を白と言つて平然としてゐるものである。

アメリカの南北戦争は、他国の介入を防ぐために奴隷解放を口実にしたが、いまや口実とした理由がその戦争の理由になつてゐる。自分の名誉のためなら人は戦ふだらうが、他人の名誉のために命を投げ出す人はゐないだらう。かつて決闘が許されてゐた時代があつた。名誉のための決闘である。名誉をもつたのは特権階級の人たちだけだつた。

南北戦争はあくまでも白人対白人の戦争であつた。これは覚えておかなければならない事実だらう。戦争に参加しても黒人が白人を殺すことはあつてはならないことであつた過去の事実がある。

人間の歴史を語るとき、これらの事実を隠すほうが、よほど歴史修正主義者の悪者である。





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# 異変の起きない普段だからこそ lundi 29 aout 2016
惜しむ。なぜ、どうして惜しむのか。

なぜなら人は失つてからでしか、その大切さ、その重大さ、その貴重さを知り得ないからである。

健康な人に、健康に留意しなさい、と言つても、人は一向に留意しない。なぜなら、今現在健康でなにも不都合が生じないからである。

ただし一旦健康を損なふと、人は途端に健康オタクになる。時既に遅し、手遅れであるにもかかはらずである。

しかし、・・・。

20160829
   < ここに健康祈願で通ふ人もゐる >

さう、しかし、なのである。実際健康を失なつてからでは手遅れなのだ。

薬や医者は気休めに過ぎない。健康はあくまでも個人、その人のあり方の問題である。

健康は肉体だけの問題ではない。健康は精神の問題でもある

健康が恢復したかに見えて、人は、簡単に安心する。

だが厳密には、それは似非健康でしかない。

だから、健康なときにこそ、肉体も精神も健康であることに留意しなければならない。

しかし、かういつたからとしても、現実は、戯言でしかないのが実際である。






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# 民主主義破壊者、マス・メディアの暴力 dimanche 31 juillet 2016


インターネットが日常的に身近になり、情報を多面的に知ることができるやうになつたいま、都知事選ニュースもその例外ではありません。マス・メディアを代表する既存のTVや新聞の情報は奇妙におなじです。しかし YouTube などの情報をみるとさうでないのが明らかです。

そこからわかることは、マス・メディアは、公を代弁すると標榜しながら、実は、スポンサーの意向に従ふために、情報を操作し、人を誘導、欺き騙し、スポンサーの意向を実現させるために、また満足させるために、スポンサーの機関誌に成り下がつてゐるのが見えてきます。

一票の格差を憲法違反だと裁判問題にする人たちが、マス・メディアの都知事選の報道をみて、偏向報道だと声をあげ、問題にするのさへ目にしたことがありません。立場が違ふと、憲法でままられてゐるはずの基本的人権が犯されてゐても、かういふ人たちは知らぬ顔をするのがよくわかります。

谷山雄二朗のこの行動さへも、マス・メディアのどこも取り上げません。言論の自由を問題にするあの参議院議員の山本太郎さへもこれを問題にしません。ほんとうに「言論の自由」を求める活動をしてゐるのなら、実際に行はれてゐる偏向報道を見過ごすはずはないのでせうが、なぜか知らぬふりして、問題にしません、これは信じられません。あの人はその程度の人なのでせう。やることを見てゐればわかります。



急仕立ての、とつてつけた、ポーズを重要視するにわか活動家だといふことがよくわかります。山本太郎本人も、こういふ事実を看過し、なにも発言しないことからわかるやうに、感じることすらできず、自己矛盾さへも感じられない不感症人間のやうです。

PCで覗いた七月三十日のテレビ朝日の都知事選ニュースは傑作でした。呆れ果てるを通り越して笑つてしまひました。三候補報道にしても、その順番は世論調査にしたがつて、これまでなら放送順位が決められるのが定石だつたはずですが、テレビ朝日は、それを無視し、世論調査の逆の順番で報道をしました。

一番は鳥越、二番は増田、三番は小池とそれぞれの選挙活動映像を流して、報道しました。では他の十八人の候補者はといへば、一覧表を表示して終はりです。この一覧表も、他の候補者の異議申し立てを小耳に挟んだ結果、マテレビ朝日が弁解のために用意した映像だといへます。

けふ七月末日は都知事選の投票日です。もしかりに今回の都知事選はマス・メディアの偏向報道により、法で守られてゐるはずの公平性が堅守されず、ゆゑにこの都知事選は成立しない、無効であると訴へられ、裁判沙汰になつたとしたら、どうなるのでせうか。可能性は大いにありさうです。

三候補に偏つた報道は、衆目の承知するところ、裁判所もうかつな結審はだせないでせう。もしさういふ結審を下したならば、今以上に法は信じられなくなります。法の正体ーー法はなにも弱者を守るためにあるのではない、強者の利権を堅守するために存在するーーも明らかにされます。

五十億だともいはれる選挙費用、それを偏向報道したマス・メディアが等分に負担するのでせうか。確信犯的に、あへて承知して偏向報道をするのですから、かういふ罰金が課せられて当然でせう。なにも知らない弱者は法を犯せば、確実に罰せられ、従はされます。従はないとさらに罰せられ、罪がさらに重くなります。ことばどおり、法の名の下においてすべての人が平等なら、それが事実なら、強者ーー扇動誘導するマス・メディアーーも罰せられて当然至極でせう。









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