蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 「土人」発言という暴力 lundi 20 février 2017
考へることを放棄した教条主義者ほど怖いものはない。

ネット上には、これまで考へられなかつた情報が溢れかへつてゐて、偶然思ひもかけない情報に接したりすることがある。

沖縄の地方新聞の記事もその例に漏れない。最近ネットで新聞記事を見ると以降は登録してとなつてゐて、有料記事になつてゐる。しかし一方では、社説などは、読ませたいのだらう、各社無料でどれだけでも読むことができるやうになつてゐる。「社説一覧」と入力するとそのサイトをみることができる。そこを覗くと社説が好きなだけ読めるやうになつてゐる。

いまでもこれら社説をありがたがつて読む人がゐるのかもしれないが、さういふ種類の人は、おそらく化石時代に属する人なのだらう。どの社説も書き方は一面的で、内容も一面的で、陳腐で、読むに耐へられないものばかりである。第一書き手の高慢な態度が、鼻につく。なぜ命令調の態度をとらなければならないのかわからない。時代錯誤の標本を見せられるやうだ。

<機動隊 差別発言を問う>沖縄からアジェンダを、と書いた学者先生のものも陳腐である。記事は、占師のごとくすべて推測で、これで原稿料がもらへるのだから結構だ。書き手と掲載者には責任がある。その責任はどこにあるのか。記事のどこにも見えてこない。

ネットで、無料で、閲覧できるのだから、引用しても問題はないだらう。

 非暴力の闘争で最も大事なのは、どうすればこちらが暴力を使わずに、相手を挑発して暴力を使わせるか、ということ。今回、この線から近づくなと言う警察に対し、抗議する人々が金網を利用して挑発し、日本警察の本質を露呈させた。「土人」発言という暴力を振るったことで、警察は窮地に立たされている。沖縄が今考えるべきは、さらに挑発的な次のアクションをどう起こすかだ。

20170220
    < おなじヘリパッドでも場所が変はれば >

これは冒頭の部分である。ここで着目すべきことは『「土人」発言という暴力を振るった』といふ箇所だ。「発言を暴力」とするのなら、金網を利用した挑発行爲や挑発言動ももちろん暴力になる。

さうなると「非暴力の闘争」ではなく、「暴力の闘争」になり、また「暴力を使わずに」ではなく、「暴力を使つて」といふことになる。これで、この書き手の理論が破綻してしまふ。それにもかかはらず、かういふ理論の破綻した記事を掲載する新聞社もお里が知れてしまふ。

 猛烈な差別構造があるからこそ、これだけの基地が沖縄にある。今回の暴言はその差別構造ばかりか、大阪府知事の差別意識まで露呈させたのだから大成功だ。

沖縄の基地問題は差別構造に由来するのか。さうではないだらう。地政学的観点に由来すると考へられる。

 もちろん、それが一般化し「沖縄人は土人だ」という空気が広がる可能性もある。その場合、沖縄は独立せざるを得ない。そのときは世界中がそれを容認し、日本は威信を喪失するだろう。だからこそ、ここが闘いどころだ。

この文章が掲載されたのは二〇一六年十月二六日、いまは二〇一七年二月二十日(月)。沖縄の人は土人とみなされてゐるだらうか。「可能性」は残念ながら裏切られてゐる。この書き手の理窟からいふと、土人とみなされるのなら沖縄は独立しなければいけないのだが、土人とみなされてゐないのだから独立の必要性はない。おかげで日本は威信を喪失しなくてもすむ、といふことになる。

まだ少し続きがあるが、あまりにも稚拙なので、もう論じる気もしない。考へることを放棄した教条主義者の陳腐さ、狂信さ、独断さだけが目立つ。可愛さうに、肩書にすがつて、声高に喋つてゐる人間の姿がみえてくるだけだ。

蛇足だが、むやみやたらにカタカナ語を乱用しない。漢字で表現出来るカタカナ語は漢字で表現する。カタカナ語の乱用は日本語の衰退、いや日本文化の衰退につながる。アジェンダとかアクションなんて不要なカタカナ語は使用しない。実際にここに使はれるアジェンダ(議題)は意味不明だ。





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# 言葉尻を捉へた土人発言報道 dimanche 15 janvier 2017
YouTube のつぎの動画で、機動隊員が土人、支那人といつてゐる画像をみることができる。芥川賞作家の目取真俊が撮影し投稿したものだ。

https://www.youtube.com/watch?v=-SANg73TJJQ 
( 敢へてリンクしません。興味があつたらクリックしてご覧あれ )

ニュース作りーー敢へて「作り」と強調するーーに携はる人たちにとつて、ネタ探しは死活問題だ。そこへこの土人発言。メディアのニュース探し人にとつて、これは千載一遇の好機。案の定、大ニュース、大問題として、扇情的に、煽り立ててニュースに仕立て上げてゐる。

だから思惑通りこの動画を見れば、だれもが憤慨するだらう。さういふ動画であるが、この画像には欠けてゐるところがある。偶然、自然に、抜け落ちたものではなく、敢へて、故意に、削除したふたつの要素だ。作家が投稿したものだ。どこを捨てて、どこを強調するか、編集はお手のものである。

20170115
   < 大地の恵みを吸収すべく根をはつて >

5W1H( When Where Who What Why How )はだれもが知つてゐる。情報を発信するには遵守すべき要素だ。しかしこの動画を見る限り、この中のふたつの要素ーー Why と How ーーが抜け落ちてゐる。それも編集されて、故意に。

5W の Why にあたる、「なぜ土人と発言したのか」といふ Why が抜け落ちてゐる。また1Hの How にあたる、「どのやうな状況下で」土人発言に至つたかといふ How が欠落してゐる。ジャーナリストといはれる専門家が使用する動画としてはお粗末といふしかない代物だ。しかしそれを敢へて使用してゐる。

ニュース作りとして、故意に、これら二要素を無視した作りだ。といふことは、ニュースとしては偏狭で、偏りがあり、煽情的で、動画を見る多くの人に事実を伝へる努力がなされてゐないと見做されても仕方がない。

20170115
   < 冬の陽光を浴びて凛として >

人は知る得る説明や情報に基づいて考へ判断する。普段の平穏な状況下で、一方的に突然土人といはれたのなら、問題にされるべきだ。しかし、さうではない。だのに状況の説明がなされてゐない。これは人の知る権利を妨害し、ある方向に導かうとする意図に基づいたプロパガンダ、つまり政治的意図に基づいた宣伝行爲だ。

賞を取るほどの物書きなのだから、かういふ姑息なことはしないと思ふが、現実は、動画を見る限り、さうでない。物書きの端くれなら、土人発言に至る経過を収録し、どのやうな状況下で土人発言がなされたかを明らかにすべきだ。さうでなければ問題の本質が疎んじられた感情対立を煽るだけで終始してしまふ。

少なくとも、これは報道として動画を採用するメディアが指摘すべき事柄なのだが、いまのメディアにさういふ能力はない。それほどメディアは能力が低下し、異状で、常識が通用しない状況のやうだ。




| comments(0) | trackbacks(0) | 10:32 | category: ひと言 |
# 成人式式典をなくす絶好の機会 mardi 10 janvier 2017
このさい成人式式典をなくしませう、と提案したらどうだらう。新成人かどうかわからないが、昨日九日は、故意に立てる、バイクの、耳をつんざかんばかりの大爆音が、離れた大通りから家の中まで飛び込んできた。

グーグルの国際ニュースを見ても、新成人のトラブルニュースの見出しが目につく。国際と名がつくのだから、本来国際的でないニュースは掲載しないのではと考へるのだが、なぜか国内三面記事ニュースも混入されてゐる。

国際と名を打つのなら、その名の通り、世界の文脈から日本を知ることができる国際ニュースがあるべきなのだが、さういふものは期待できさうもない。表示の仕方も、国際情勢を知る優先度が重要視されてゐるわけでもない。この記事ーー高齢者乗せタクシー27時間不明鹿児島、運転手が意識不明ーーのどこが国際ニュースになるのか知らないが、国際ニュースの上から四番目に表示されてゐる。

新成人にまつわるトラブルニュースも国際ニュースとして扱はれてゐる。理解に苦しむ。ところで法律では、十八歳に選挙権が付与され、十八歳は成人として遇されてゐやうになつた。しかしもう一方では、旧来通り、二十歳が成人としてみなされ、公共施設で、市長や国会議員など政治家といはれる人々が出席して、公的に成人式が行はれてゐる。

20170110
   < 柊の花 美しいものにはトゲがある >

商売が成立つこともあるのかもしれない、またさういふビジネス筋からの嘆願や圧力があるのかもしれない。なぜならこれらの人々も有権者だから、政治家連は怖いもかもしれない。されはさうと、成人のこの問題、矛盾には蓋がされたままだ。

必ず成人式を行はなければならないのならば、成人年齢が、法律で、十八歳に引き下げられることが決まつた時点で、十九歳になる人も、二十歳を迎へる人も、成人式を行へばよかつたのだと考へる。

なにも対処しないから旧弊は旧弊として残つたままだ。十八歳は政治家のエゴのために、二十歳は商売人のエゴのために、成人として祝はれることになつてゐる。ほんとうに祝ふ人々に祝ふ氣持があるのだらうか。大いに疑問だ。

いつものやうになにも対処がなされない。矛盾状態が放置され、そのために、日韓の慰安婦問題のやうに、後々まで残る問題になるかもしれない。



| comments(0) | trackbacks(0) | 08:47 | category: ひと言 |
# 年のはじめの一冊『須賀敦子の手紙』 dimanche 1er janvier 2017
図書館の資料を検索してゐて偶然見つけた『須賀敦子の手紙』、貸出し予約手続き処理に進んだが既に予約者がゐて、貸出し順が巡つてくるのは数ヶ月先になると判断し、出版年も二〇一六年五月だつたことから、近くの書店の在庫状況を調べたらあつたので、こちらで購入した。

20170101

書店の書架に、なかがみられないやうに、透明紙で包まれて、いかにも仰々しさうに、置いてあつた『須賀敦子の手紙』。さうはいつても、ふつうは一冊はなかが見えるやうにしてあるものだけど、その一冊もない。この自分は須賀敦子のいい読者かどうかはわからないが、『ミラノ霧の風景』からの読者で、新刊が出版されるたびに、新著を手にし、読んできたこともあつて、本の外観をみ、見つけたといふことだけで購入した。

無頓着な購入の仕方だと思ふかもしれないが、最近は本、とくにいかにも売れそうもない、また買はれさうもない本はすぐ本屋から消えてしまふ。だから、このときと思つたときに購入しておかないと、二度と手にすることができなくなる。

20170101

この本を手に取ればわかるが、この本は須賀敦子の書き慣れた読みやすい肉筆文字を楽しめる本だ。と同時にフォントがいかに味気ないかを示してくれる格好の形になつた本だ、とも言へる。

手書き文字は、さまざまで、上手下手以前に、親しみやすさを感じさせるもの、反対にどうしても好きになれないものに分かれる。達筆だけど、達筆を鼻にかけところが文字に現れ、上手だけど読みにくくて辟易するものもあるし、かといへば、下手だけど、書き慣れてゐて、下手は下手なりに、どこか親しみやすさを感じさせる手書き文字もある。

20170101

この『須賀敦子の手紙』は、もう一方では久家靖秀の写真集で、ハガキや封書の全部で五十五通の手紙を写真に納めたものである。写真を眺めてゐると、つい拾ひ読みしてゐる自分に気づく。

なかではつぎのやうな文章に目が止まつたりしてゐる。「勉強というものは、やればやるほど わからないところが山ほど出てくるので 全く困ったことだと思いながら どうにか一日一日をすごしています」

20170101

また PAR AVION 航空郵便といふハガキや封筒に押されたハンコをみて、水村美苗の『日本語が亡びるとき』を思ひ出したりした。PAR AVION が次第に BY AIR MAIL にとつて代はれる例を持ち出して、アメリカの影響力を説明する箇所である。

なかにはわざわざ赤インクで書かれた、イノウエ ヤスシは je ne l’aime pas. tellement. と書いたハガキも目に止まつた。だからといつて、この自分は、井上靖の小説はこれまで一行も読んだことがない。実をいふと、この一言で、読まなくてもよい理由をもらつた気持になつたのだ。





| comments(0) | trackbacks(0) | 19:07 | category: 覚え書 |
# ボブ・ディランとノーベル文学賞と夏目漱石 mercredi 23 novembre 2016
二〇一六年のノーベル文学賞は、かつていはれたやうにフォークシンガーといふのか、いま風にミュージシャンといふのかしらないが、アメリカのボブ・ディランに決まつたさうだ。

なんの賞でもさうだらうが、一般的に、発表するまでの手続きは、断られるといふことも考慮して、事前に本人もしくは関係者に連絡があり、受賞の意思を確認して、それからといふことになる。ノーベル賞に関しては、他の賞とは異なり、報道を知る限りでは、決定した当日に連絡をとつたさうだ。

比較の対象にならないが、思ひ出されるのは、桑田佳祐の紫綬褒賞の受賞。年越しライブでの一連の出来事ーー紫綬褒章を尻のポケットか取り出し、モノマネをして笑ひをとつたさうだ。

その後、その行爲にたいしてなされた批判、それをことなきに収めるためと解釈される釈明文。受賞に至る一連の手続きを考へると不可解な行動をしたものだと思はれる。真意は測りかねるが、手続きとして、受賞の意思を尋ねられ、それを受諾したのだらう、さうでなければ受賞はない。

しかし、それにもかかはらず、知る限りでは意味のない半畳を入れ、おまけに釈明文まで公表したのだから、一連の手続きを知る人から批判がでるのは当然だらう。

さてボブ・ディランに戻つて、報道はそのときの状況を、ボブ・ディラン本人は「寝てゐる」といふことで、直接電話口にでなかつたと告げてゐる。以來ボブ・ディランと連絡が取れない状況が続くなか、ノーベル財団事務局は連絡を取るのをやめた、と報道がなされた。

この状況に関して、さまざまな憶測があつた。が、このままボブ・ディラン本人がなにも発言しなければ、授与式のある十二月十日を待つより方法はないだらう、といふことになつてゐた。

20161123
   < ものは見方次第 >

しかし十月二八日、ボブ・ディランは口を開き、ノーベル文学賞に対する態度を明らかにした。それまでの間、つまり無言期間の十月十三日から二八日までになされたさまざまな発言が興味深い。これもまた一個人の憶測にしか過ぎないが、もつとも興味深いのは選考委員長本人のボブ・ディランにたいする「無礼で傲慢」だといふ発言だ。

なぜ「無礼で傲慢」なのか。「無礼で傲慢」なのは、立腹する発言者本人ではないだらか。

発言者本人からしてみれば、「ノーベル賞」はたとへどんな人間でも、素直に嬉々として喜び、無条件に受け入れる権威ある賞だ、それを疑はない、といふ狂信に似た確信があるのだらう。それを保留にされたことが信じられなかつた。だから、導火線に火がつき、この発言の爆発につながつたのだらう、と思はれる。

興味深いもので、約二週間のボブ・ディランの沈黙は人間模様を見せてくれました。さういふ意味で、考へる契機となつたボブ・ディランのこの沈黙に深謝してもいいでせう。

もし選考委員長本人が稀に見る謙虚な人であつたのなら、この沈黙から最大の恩恵を引き出し得たのは、委員長本人をおいて、だれもゐなかつただらう。つまりこの沈黙で、考へることの根源に立ち戻れたのは委員長本人をおいて存在しないのだ。

委員長は、もう一度、「権威とは何か」といふ問に立ち返れることができただらう。現在ノーベル賞の権威を疑ふひとはだれもゐない。それを承知で、この権威の由来は、この権威の正体は、この権威は、と疑問を呈し、再考したとしたらだらう。

仮に、権威の由来は賞金の額だとみなしたら、どうだらう。日本円に換算すると一億円近い賞金額が権威を成す、権威とみなされるといつてもあながち間違ひとはいへないだらう。もし賞金をなしにし、顕彰にとどめたとしたら、ノーベル賞の権威は不変だらうか。不変だとしたらこれほど素晴らしい賞はない。しかし、それはあり得ないことだらう。

20161123
   < ものは考へ方次第 >   

三文映画で題名も忘れたが、しかし、その映画で記憶に残つたセリフ
ーー「本物の人間になりたければ本物の革命家になれ」。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を契機にして、注意を拂つて、考へてもいい言葉ではないだらうか。

なにものにも多面性があり、言葉もその例外ではないのだから、ただ単にニュースに反応するだけではなく、多面的に、自分のこととして思へるのもひとつだ。

夏目漱石( 1867 - 1916 )四十四歳のときにおきた、博士号をめぐつての文部省との事件がある。あくまでもアジアの一国内の出来事で、今回のボブ・ディランのノーベル賞のやうな規模ではないが、それでも、この出来事の詳細を知ると興味深いものがある。

これも文部省の勅令で、漱石の関知しないところで、一方的に決められ、新聞紙上に発表されたことで、それを知つた漱石の辞退である。ここには当時の文部省の、その役人の傲慢の一端も窺ひ知ることができる。

つまりは漱石は文部省の権威を認めなかつたのだ、と考へられる。文部省の勅令に従ふことは、単に手続き問題などではなく、それ以上に漱石には我慢ができなかつたことがあつたのだらう。

権威を認める認めないは、それを上に置くか下に置くかであり、それによつて、それ以降の振る舞ひも影響されるのは当然だらう。

漱石は、さういふ権威を、国家の威信を、わが頭上にいだきたくはなかつたのだらう。だれにも、なにものにも拘束されることのない自分でゐたかつたのだらう。「本物の人間」をめざしてゐたと推測してもいいだらう。







| comments(0) | trackbacks(0) | 04:37 | category: ひと言 |
# モチモチする餃子の皮の作り方 dimanche 9 octobre 2016
時間が許すなら餃子の皮を自分の手で作つてみる。勘違ひが偶然生んだ餃子の皮のモチモチ感。うまい餃子を食べてみたかつたら、一度はやつてみる価値がある。

餃子のうまさは皮にある。一度、市販の皮と自分が作った皮で、おなじ具を包んで食べ比べてみるとよい。うまさは歴然としてゐる。少しの手間でこれだけの相違がでる。それを知らないのは、ほんとうの皮のうまい味を知らないからだ。知らないといふことは損であり、可哀想でもあり、哀れでもある。

なぜなら出来合ひを食べさせられ、それがうまいと教へ込まれ、それを信じるやうな生かされ方をしてゐて、主体性なるものがどこにもないからだ。食べ物の味さへもコントロールされて生かされてゐることに気づかないのだ。

20161009

自分の舌でおいしさを判断できない。これは哀れな生き物以外のなにものでもない。なぜなら、舌さへも、奴隷になつてゐるのだから、宣伝が果たす効果は絶大だ。洗脳は脳味噌のことだと思ひがちだが、さういふことはない、人間まるごと全てが洗脳の対象だ。

ところで餃子の皮の作り方。強力粉150gに薄力粉50g。いくつかのレシピを知ると強力粉と薄力粉の分量が逆のものもある。おなじ分量の湯を注いでも粉の分量が違ふと粘り度も違つて、強力粉が多い場合は固く、薄力粉が多い場合は柔らかく仕上がる。

モチモチ感を出すには湯の注ぎ方を数回に分けるだけでよい。皮を作るのに手で捏ねる必要はない。時間の短縮と楽をするためにフードプロセッサーを、馬力の強いCUISINARTのフードプロセッサーを使用すればよい。他のメイカーのものだとモーターの力が弱く、粉に粘りが出てくるとモーターが止まつてしまふ。

20161009

CUISINARTのフードプロセッサーの利点がさらにもう一つ、小麦粉を撹拌しながら、熱湯を注ぐことができることだ。モーターが動いてゐる状態で湯が注げる。これはCUISINARTのある機種にしかないが、この作りが有効に利用できる。

これは、貼付した写真を見ればわかるが、蓋がさう作られてゐるからだ。他のメイカーのものでは、湯を注ぐために、いちいち蓋を開けなければならない。蓋を押すか押さないかで電源が入るやうになつてゐて、蓋を開ければその度に電源が切れ、モーターが止まり、撹拌も中断することになる。さうなると湯の馴染みも全体に満遍なくいかなくなつてしまふ。

湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづけ、湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづける。これを六回繰り返す。以前は熱いことを最優先させてゐたので、湯を一気に注いでゐたのだが、あるとき湯の分量を勘違ひして、上記のやうに分割した湯の注ぎ方をしたらモチモチ感のある皮ができたのだ。

20161009
   < 焼き師いはく、大きい場合は湯ではなく水を、と >

おそらく空き時間を設けて、数回に分けて湯を注ぐことで、粉全体に湯が満遍なく行き渡るのだらう。さうした馴染みが粉のモチモチ感につながるのだと推測できる。

捏ねた粉を寝かせたら、つぎは粉をドーナツ型にし、棒状になつたものを二等分に切り分け、二等分したものを並べて、さらに二等分に切り分け四等分にし、全部で十六等分に切り分ける。三十二等分に切り分け小さい餃子にすることもできるが、食べ応へからして、個人的だが、十六等分したもののほうがよい。

切り分けたらつぎは掌サイズの麺棒で伸ばす。伸ばし方によつて皮の大きさも変はる。ただ闇雲に伸ばさずに、皮の厚みの食感を楽しめるやうに考へながら作るのも勘所だ。とうぜん皮の厚みも餃子のうまさを左右する。

20161009
   < 一度焦げ目をつけると・・・ >

パナソニックのフードプロセッサーはもつぱらキャベツを切るのに使用する。プロセッサーで粗めに刻んだキャベツは、塩を振つて、時間を置いてから、手で、水気を絞り、ひき肉と混ぜ合はせる。

レシピは基本的に『粉からはじめレシピ』(オレンジペ−ジ)の「焼き餃子のレシピ」を参照してゐるので、詳細はそちらを参照してもらふと幸ひである。





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# 木洩れ陽 vendredi 7 octobre 2016
久しぶりの秋晴れ。黄葉前の青葉に射す光の戯れに魅入られて写真を撮つてゐたら浮上した言葉、木洩れ陽。久しく、生活がこの言葉を必要としてゐなかつたやうです。

20161007

人の記憶は不思議で、一度覚えたことは完全に消し去ることはできないやうです。なにかを契機にして、どこかからか、忘れてゐたものが意識の表層に浮上してきます。






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# 十月は神無月 lundi 3 octobre 2016
十月になりました。

ときには「神無月」といふ言葉を思ひ出してもいいのではないか、といふ思ひが浮かびました。

さらに前後の月の日本独自の呼称を思ひ出すのも、いまでは一興か。

20161003

九月は長月(ながつき)、十一月は霜月(しもづき)。

いまはだれもが疑ひもなく機械的に数字で月を表しますが、かうした日本独自の呼称を思ひだすと、途端に抽象が具象に変貌し、手触り感が出てきます。

20161003

まるで、音訓読みのやう。数字で表す月が「音読み」の抽象世界、日本独自の呼称の月が「訓読み」の具象世界。

ときにはかういふことに思ひを馳せるのもいいのではないか。





| comments(0) | trackbacks(0) | 06:39 | category: ひと言 |
# 蓮舫、山尾、この人たちも政治の破壊者 vendredi 30 septembre 2016
ネットでニュースに目をとおしてゐたら、みたくもない、蓮舫の発言記事があつた。最初に感じたことは「よくいふよ」といふ呆れた思ひだつた。

「責任を取ることは当然だが、どういう意味合いで発言したのか、明らかにしていただかないと(いけない)。クビを切ったから、なかったですよという話にはならない」(産経ニュース(9/30)だけがここまで書いてゐた)

先日まで台湾と日本との二重国籍問題であれこれ報道されたゐた蓮舫議員。その舌の根が乾く間もないうちのこの発言。これはそのまま本人に返つてくる。それに氣づかないほど愚かなのか、この厚顔無恥な民進党代表は。

問題が起きると結末はいつもおなじ。はつきりとわかりました、理解できました、とふのではなく、国民のだれ一人として首肯できないまま、あへて承知のうへで、曖昧模糊、有耶無耶、正体不明になつて終はりといふ幕引きばかり。

蓮舫議員の二重国籍問題の説明、一体国民のどれだけの人が、理解して、納得してゐるのか。

大多数の国民が、説明とは裏腹に、納得してゐないのが現実だ。

20160930         
  < 自然は、だれが見てなくても、務めを遂行する >

保育園問題で「日本死ね」で烈火のごとく、追求の先頭に立つて、国会で熱弁を振るつた山尾志桜里議員、地球五周分のガソリンの問題がでると、途端に豹変して、釈明会見も有耶無耶にして、問題の幕引き。

この二人に共通してゐるところ。攻めるときは、徹底的に、どぎつく、攻めたてて、これでもか、これでもかと、ぐうの音もいはせず、エゲツなく攻めたてる。

一転、矛先が自分に向くやうな事態が発生すると、玉虫色、曖昧模糊、詳細を調べさせていただき、報告させていただきますと、見てくれだけは卑下てみせて、ひたすら逃げの一手。言葉だけは謙りくだつてみせるが、だれもみてゐないところでは、真つ赤な舌をペロリと出して、平然と国民を裏切り、うそぶき、騙して、バカにしてゐる。

これでは、だれも信用しなくなる。政治の不信のタネを蒔いてゐるのは、なにも与党に限つたことではない、野党の花形議員としてメディアに持ち上げられてゐるこれら輩も不信のタネを蒔いてゐる。結局はおなじ穴のムジナに過ぎない。

蛇足にもう一言。
国会は女性議員のファッションの場ではない。目が腐るやうな、見たくもない三流以下のファッションに汲々とする時間があるのなら、ビジネススーツに身を固め、誠實に、政策論争を行ひ、国民に問題を氣づかさせるために、理解させるために時間を費やしなさい。それが政治にかかはるひとの務めである。






| comments(0) | trackbacks(0) | 19:12 | category: ひと言 |
# もう金木犀の季節 mercredi 28 septembre 2016
毎年の、いつものことで、進歩といふものがまつたく窺へないのが、この自分。正月を迎へると、決まつて、一年を指折り数へて、その先の長さに嘆息したり、うんざりしたりする。しかし反面、安堵したりする。

しかし、蝉とおなじで、夏が過ぎるころになると、にはかに、残りの月を数へはじめて、焦りだす始末。これも毎年まさに、恒例の心の動き。

通りを歩くといい香りがし、香りのもとはと、街路樹を注視すると、金木犀が木全体に黄色の花をつけてゐる。咲いたばかりで、まだ一粒も地面に花が落ちてゐない。しかし、時間が経ち、一日二日過ぎると、やがて黄色い絨毯が道路を敷き詰めるやうになる。

20160928

家に帰ると、金木犀の花よりは大きく、しかし他のものと比較すると小さい花が咲いてゐた。花が小さければ、命も小さいのではと聯想したりする。命が小さいと、もちろん命も短いもの、さういふ思ひが脳裏をよぎる。

見落とされがちな目立たない花。しかし、写真を撮るこちら側に、小さいながら命の輝きを放ち、命の不思議さを伝へてくる。小すぎて、だれも、気にも留めない花、しかしそれでも、花開いて、命の輝きを放つてゐる。

この花も、じつは取るに足らないその他大勢のわたしたちとなんら変はりがない。人は、だれもその他大勢とは、これつぽちも、思つてゐないが、現実は正反対そのもの、その他大勢の一人にさへもなれないわれら。だからこそ、同類のかういふ小さい花に目が止まり、心動かされるのかもしれない。








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