蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# ボブ・ディランとノーベル文学賞と夏目漱石 mercredi 23 novembre 2016
二〇一六年のノーベル文学賞は、かつていはれたやうにフォークシンガーといふのか、いま風にミュージシャンといふのかしらないが、アメリカのボブ・ディランに決まつたさうだ。

なんの賞でもさうだらうが、一般的に、発表するまでの手続きは、断られるといふことも考慮して、事前に本人もしくは関係者に連絡があり、受賞の意思を確認して、それからといふことになる。ノーベル賞に関しては、他の賞とは異なり、報道を知る限りでは、決定した当日に連絡をとつたさうだ。

比較の対象にならないが、思ひ出されるのは、桑田佳祐の紫綬褒賞の受賞。年越しライブでの一連の出来事ーー紫綬褒章を尻のポケットか取り出し、モノマネをして笑ひをとつたさうだ。

その後、その行爲にたいしてなされた批判、それをことなきに収めるためと解釈される釈明文。受賞に至る一連の手続きを考へると不可解な行動をしたものだと思はれる。真意は測りかねるが、手続きとして、受賞の意思を尋ねられ、それを受諾したのだらう、さうでなければ受賞はない。

しかし、それにもかかはらず、知る限りでは意味のない半畳を入れ、おまけに釈明文まで公表したのだから、一連の手続きを知る人から批判がでるのは当然だらう。

さてボブ・ディランに戻つて、報道はそのときの状況を、ボブ・ディラン本人は「寝てゐる」といふことで、直接電話口にでなかつたと告げてゐる。以來ボブ・ディランと連絡が取れない状況が続くなか、ノーベル財団事務局は連絡を取るのをやめた、と報道がなされた。

この状況に関して、さまざまな憶測があつた。が、このままボブ・ディラン本人がなにも発言しなければ、授与式のある十二月十日を待つより方法はないだらう、といふことになつてゐた。

20161123
   < ものは見方次第 >

しかし十月二八日、ボブ・ディランは口を開き、ノーベル文学賞に対する態度を明らかにした。それまでの間、つまり無言期間の十月十三日から二八日までになされたさまざまな発言が興味深い。これもまた一個人の憶測にしか過ぎないが、もつとも興味深いのは選考委員長本人のボブ・ディランにたいする「無礼で傲慢」だといふ発言だ。

なぜ「無礼で傲慢」なのか。「無礼で傲慢」なのは、立腹する発言者本人ではないだらか。

発言者本人からしてみれば、「ノーベル賞」はたとへどんな人間でも、素直に嬉々として喜び、無条件に受け入れる権威ある賞だ、それを疑はない、といふ狂信に似た確信があるのだらう。それを保留にされたことが信じられなかつた。だから、導火線に火がつき、この発言の爆発につながつたのだらう、と思はれる。

興味深いもので、約二週間のボブ・ディランの沈黙は人間模様を見せてくれました。さういふ意味で、考へる契機となつたボブ・ディランのこの沈黙に深謝してもいいでせう。

もし選考委員長本人が稀に見る謙虚な人であつたのなら、この沈黙から最大の恩恵を引き出し得たのは、委員長本人をおいて、だれもゐなかつただらう。つまりこの沈黙で、考へることの根源に立ち戻れたのは委員長本人をおいて存在しないのだ。

委員長は、もう一度、「権威とは何か」といふ問に立ち返れることができただらう。現在ノーベル賞の権威を疑ふひとはだれもゐない。それを承知で、この権威の由来は、この権威の正体は、この権威は、と疑問を呈し、再考したとしたらだらう。

仮に、権威の由来は賞金の額だとみなしたら、どうだらう。日本円に換算すると一億円近い賞金額が権威を成す、権威とみなされるといつてもあながち間違ひとはいへないだらう。もし賞金をなしにし、顕彰にとどめたとしたら、ノーベル賞の権威は不変だらうか。不変だとしたらこれほど素晴らしい賞はない。しかし、それはあり得ないことだらう。

20161123
   < ものは考へ方次第 >   

三文映画で題名も忘れたが、しかし、その映画で記憶に残つたセリフ
ーー「本物の人間になりたければ本物の革命家になれ」。ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞を契機にして、注意を拂つて、考へてもいい言葉ではないだらうか。

なにものにも多面性があり、言葉もその例外ではないのだから、ただ単にニュースに反応するだけではなく、多面的に、自分のこととして思へるのもひとつだ。

夏目漱石( 1867 - 1916 )四十四歳のときにおきた、博士号をめぐつての文部省との事件がある。あくまでもアジアの一国内の出来事で、今回のボブ・ディランのノーベル賞のやうな規模ではないが、それでも、この出来事の詳細を知ると興味深いものがある。

これも文部省の勅令で、漱石の関知しないところで、一方的に決められ、新聞紙上に発表されたことで、それを知つた漱石の辞退である。ここには当時の文部省の、その役人の傲慢の一端も窺ひ知ることができる。

つまりは漱石は文部省の権威を認めなかつたのだ、と考へられる。文部省の勅令に従ふことは、単に手続き問題などではなく、それ以上に漱石には我慢ができなかつたことがあつたのだらう。

権威を認める認めないは、それを上に置くか下に置くかであり、それによつて、それ以降の振る舞ひも影響されるのは当然だらう。

漱石は、さういふ権威を、国家の威信を、わが頭上にいだきたくはなかつたのだらう。だれにも、なにものにも拘束されることのない自分でゐたかつたのだらう。「本物の人間」をめざしてゐたと推測してもいいだらう。







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# モチモチする餃子の皮の作り方 dimanche 9 octobre 2016
時間が許すなら餃子の皮を自分の手で作つてみる。勘違ひが偶然生んだ餃子の皮のモチモチ感。うまい餃子を食べてみたかつたら、一度はやつてみる価値がある。

餃子のうまさは皮にある。一度、市販の皮と自分が作った皮で、おなじ具を包んで食べ比べてみるとよい。うまさは歴然としてゐる。少しの手間でこれだけの相違がでる。それを知らないのは、ほんとうの皮のうまい味を知らないからだ。知らないといふことは損であり、可哀想でもあり、哀れでもある。

なぜなら出来合ひを食べさせられ、それがうまいと教へ込まれ、それを信じるやうな生かされ方をしてゐて、主体性なるものがどこにもないからだ。食べ物の味さへもコントロールされて生かされてゐることに気づかないのだ。

20161009

自分の舌でおいしさを判断できない。これは哀れな生き物以外のなにものでもない。なぜなら、舌さへも、奴隷になつてゐるのだから、宣伝が果たす効果は絶大だ。洗脳は脳味噌のことだと思ひがちだが、さういふことはない、人間まるごと全てが洗脳の対象だ。

ところで餃子の皮の作り方。強力粉150gに薄力粉50g。いくつかのレシピを知ると強力粉と薄力粉の分量が逆のものもある。おなじ分量の湯を注いでも粉の分量が違ふと粘り度も違つて、強力粉が多い場合は固く、薄力粉が多い場合は柔らかく仕上がる。

モチモチ感を出すには湯の注ぎ方を数回に分けるだけでよい。皮を作るのに手で捏ねる必要はない。時間の短縮と楽をするためにフードプロセッサーを、馬力の強いCUISINARTのフードプロセッサーを使用すればよい。他のメイカーのものだとモーターの力が弱く、粉に粘りが出てくるとモーターが止まつてしまふ。

20161009

CUISINARTのフードプロセッサーの利点がさらにもう一つ、小麦粉を撹拌しながら、熱湯を注ぐことができることだ。モーターが動いてゐる状態で湯が注げる。これはCUISINARTのある機種にしかないが、この作りが有効に利用できる。

これは、貼付した写真を見ればわかるが、蓋がさう作られてゐるからだ。他のメイカーのものでは、湯を注ぐために、いちいち蓋を開けなければならない。蓋を押すか押さないかで電源が入るやうになつてゐて、蓋を開ければその度に電源が切れ、モーターが止まり、撹拌も中断することになる。さうなると湯の馴染みも全体に満遍なくいかなくなつてしまふ。

湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづけ、湯を注いでは三十秒ほど撹拌をつづける。これを六回繰り返す。以前は熱いことを最優先させてゐたので、湯を一気に注いでゐたのだが、あるとき湯の分量を勘違ひして、上記のやうに分割した湯の注ぎ方をしたらモチモチ感のある皮ができたのだ。

20161009
   < 焼き師いはく、大きい場合は湯ではなく水を、と >

おそらく空き時間を設けて、数回に分けて湯を注ぐことで、粉全体に湯が満遍なく行き渡るのだらう。さうした馴染みが粉のモチモチ感につながるのだと推測できる。

捏ねた粉を寝かせたら、つぎは粉をドーナツ型にし、棒状になつたものを二等分に切り分け、二等分したものを並べて、さらに二等分に切り分け四等分にし、全部で十六等分に切り分ける。三十二等分に切り分け小さい餃子にすることもできるが、食べ応へからして、個人的だが、十六等分したもののほうがよい。

切り分けたらつぎは掌サイズの麺棒で伸ばす。伸ばし方によつて皮の大きさも変はる。ただ闇雲に伸ばさずに、皮の厚みの食感を楽しめるやうに考へながら作るのも勘所だ。とうぜん皮の厚みも餃子のうまさを左右する。

20161009
   < 一度焦げ目をつけると・・・ >

パナソニックのフードプロセッサーはもつぱらキャベツを切るのに使用する。プロセッサーで粗めに刻んだキャベツは、塩を振つて、時間を置いてから、手で、水気を絞り、ひき肉と混ぜ合はせる。

レシピは基本的に『粉からはじめレシピ』(オレンジペ−ジ)の「焼き餃子のレシピ」を参照してゐるので、詳細はそちらを参照してもらふと幸ひである。





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# 木洩れ陽 vendredi 7 octobre 2016
久しぶりの秋晴れ。黄葉前の青葉に射す光の戯れに魅入られて写真を撮つてゐたら浮上した言葉、木洩れ陽。久しく、生活がこの言葉を必要としてゐなかつたやうです。

20161007

人の記憶は不思議で、一度覚えたことは完全に消し去ることはできないやうです。なにかを契機にして、どこかからか、忘れてゐたものが意識の表層に浮上してきます。






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# 十月は神無月 lundi 3 octobre 2016
十月になりました。

ときには「神無月」といふ言葉を思ひ出してもいいのではないか、といふ思ひが浮かびました。

さらに前後の月の日本独自の呼称を思ひ出すのも、いまでは一興か。

20161003

九月は長月(ながつき)、十一月は霜月(しもづき)。

いまはだれもが疑ひもなく機械的に数字で月を表しますが、かうした日本独自の呼称を思ひだすと、途端に抽象が具象に変貌し、手触り感が出てきます。

20161003

まるで、音訓読みのやう。数字で表す月が「音読み」の抽象世界、日本独自の呼称の月が「訓読み」の具象世界。

ときにはかういふことに思ひを馳せるのもいいのではないか。





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# 蓮舫、山尾、この人たちも政治の破壊者 vendredi 30 septembre 2016
ネットでニュースに目をとおしてゐたら、みたくもない、蓮舫の発言記事があつた。最初に感じたことは「よくいふよ」といふ呆れた思ひだつた。

「責任を取ることは当然だが、どういう意味合いで発言したのか、明らかにしていただかないと(いけない)。クビを切ったから、なかったですよという話にはならない」(産経ニュース(9/30)だけがここまで書いてゐた)

先日まで台湾と日本との二重国籍問題であれこれ報道されたゐた蓮舫議員。その舌の根が乾く間もないうちのこの発言。これはそのまま本人に返つてくる。それに氣づかないほど愚かなのか、この厚顔無恥な民進党代表は。

問題が起きると結末はいつもおなじ。はつきりとわかりました、理解できました、とふのではなく、国民のだれ一人として首肯できないまま、あへて承知のうへで、曖昧模糊、有耶無耶、正体不明になつて終はりといふ幕引きばかり。

蓮舫議員の二重国籍問題の説明、一体国民のどれだけの人が、理解して、納得してゐるのか。

大多数の国民が、説明とは裏腹に、納得してゐないのが現実だ。

20160930         
  < 自然は、だれが見てなくても、務めを遂行する >

保育園問題で「日本死ね」で烈火のごとく、追求の先頭に立つて、国会で熱弁を振るつた山尾志桜里議員、地球五周分のガソリンの問題がでると、途端に豹変して、釈明会見も有耶無耶にして、問題の幕引き。

この二人に共通してゐるところ。攻めるときは、徹底的に、どぎつく、攻めたてて、これでもか、これでもかと、ぐうの音もいはせず、エゲツなく攻めたてる。

一転、矛先が自分に向くやうな事態が発生すると、玉虫色、曖昧模糊、詳細を調べさせていただき、報告させていただきますと、見てくれだけは卑下てみせて、ひたすら逃げの一手。言葉だけは謙りくだつてみせるが、だれもみてゐないところでは、真つ赤な舌をペロリと出して、平然と国民を裏切り、うそぶき、騙して、バカにしてゐる。

これでは、だれも信用しなくなる。政治の不信のタネを蒔いてゐるのは、なにも与党に限つたことではない、野党の花形議員としてメディアに持ち上げられてゐるこれら輩も不信のタネを蒔いてゐる。結局はおなじ穴のムジナに過ぎない。

蛇足にもう一言。
国会は女性議員のファッションの場ではない。目が腐るやうな、見たくもない三流以下のファッションに汲々とする時間があるのなら、ビジネススーツに身を固め、誠實に、政策論争を行ひ、国民に問題を氣づかさせるために、理解させるために時間を費やしなさい。それが政治にかかはるひとの務めである。






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# もう金木犀の季節 mercredi 28 septembre 2016
毎年の、いつものことで、進歩といふものがまつたく窺へないのが、この自分。正月を迎へると、決まつて、一年を指折り数へて、その先の長さに嘆息したり、うんざりしたりする。しかし反面、安堵したりする。

しかし、蝉とおなじで、夏が過ぎるころになると、にはかに、残りの月を数へはじめて、焦りだす始末。これも毎年まさに、恒例の心の動き。

通りを歩くといい香りがし、香りのもとはと、街路樹を注視すると、金木犀が木全体に黄色の花をつけてゐる。咲いたばかりで、まだ一粒も地面に花が落ちてゐない。しかし、時間が経ち、一日二日過ぎると、やがて黄色い絨毯が道路を敷き詰めるやうになる。

20160928

家に帰ると、金木犀の花よりは大きく、しかし他のものと比較すると小さい花が咲いてゐた。花が小さければ、命も小さいのではと聯想したりする。命が小さいと、もちろん命も短いもの、さういふ思ひが脳裏をよぎる。

見落とされがちな目立たない花。しかし、写真を撮るこちら側に、小さいながら命の輝きを放ち、命の不思議さを伝へてくる。小すぎて、だれも、気にも留めない花、しかしそれでも、花開いて、命の輝きを放つてゐる。

この花も、じつは取るに足らないその他大勢のわたしたちとなんら変はりがない。人は、だれもその他大勢とは、これつぽちも、思つてゐないが、現実は正反対そのもの、その他大勢の一人にさへもなれないわれら。だからこそ、同類のかういふ小さい花に目が止まり、心動かされるのかもしれない。








| comments(0) | trackbacks(0) | 22:10 | category: 覚え書 |
# すべてが有耶無耶の上で成立する国、ニッポン mardi 20 septembre 2016
東京都庁は豊洲市場問題で大揺れである。ニュースを覗けば、見たくはなくても、どこもかしこも豊洲問題ばかり。しかし、だからこそ、間違ひなく、この問題は有耶無耶になつて終はるだらう。犯人もゐなければ、責任をとる人もゐない。都庁のシステムの缺陥さへ問題にならない、だらう。
さういへば、軽自動車で地球五周分、二百三十万円相当のガソンリをつかつたといふ民進党の衆議院議員、山尾志桜里がゐる。この問題もメディアで騒がれたが、結末は有耶無耶のままである。当の本人は責任などどこ吹く風のごとく議員を続けてゐる。

この山尾志桜里が注目を集めたのは「保育園落ちた。日本死ね」を国会で問題にしたのが始まりだと記憶する。しかし、地球五周分のガソリン代問題が浮上すると、なぜか「保育園落ちた。日本死ね」問題も尻切れとんぼになつて終はつてしまつた。

日本の議論で致命的に欠けてゐるものは、カナダに住む渡辺惣樹が『アメリカの対日政策を読み解く』のなかで指摘するやうに、クロス(反対尋問)制度の欠如である。

クロス(反対尋問)とは、問題になつてゐる事柄が、議論に相当するかを判別する制度である。この反対尋問を通過することで、はじめて問題の俎上にあがることが認められる、といふものである。

もしクロス(反対尋問)を通過しないものは、議論の対象にならない、さういふ決め事が共有されてゐる国と、さうでない国の違ひは歴然としてゐる。

20160920

クロス制度の導入を大前提とすれば、国会での時間の有効利用になる。つまり国民の税金の無駄使ひをしないで済むやになる。

クロス(=反対尋問)を経ないことで大問題になつたものがある。慰安婦問題だ。いまは「慰安婦問題」となつたが、それ以前は「従軍慰安婦問題」だつたのは、だれもが知るところだ。

あれだけ長期間にわたつて問題になつた「従軍」が、かくも簡単に、「従軍」の二字が消える。ここにこの国のメディアの有耶無耶性がある。それだけに限らずこれを許してきた国にも、政治に携はる議員にも有耶無耶性がある。有耶無耶を許す国民にも責任がある。

この問題でだれが責任をとつたのか。だれも責任をとつてゐない。かういうふ有耶無耶が平然と許される国、ニッポン。それが法に基づいた近代国家といふのだから、嗤へる。

もし慰安婦問題が問題になるとき、クロス(=反対尋問)の手続きを経てゐたら、逆に問題として取り上げた福島瑞穂の責任が問はれたはずである。しかし結果からみれば、この従軍慰安婦問題で福島瑞穂は国会議員になり、こともあらうに、ひと財産築いたわけである。





| comments(0) | trackbacks(0) | 22:26 | category: ひと言 |
# トマトのシロップ煮 vendredi 2 septembre 2016
完熟トマト
スーパーで箱で売られてゐたトマトがあつたので、今年最後のトマトのシロップ煮を作るつもりで購入しました。購入したトマトの賞味期限切れの日が近づきさうだつたので、夕食後、期限切れの言葉に促されて、やむなく作りました。

鍋三つ
まず鍋を三つ用意しました。ひとつはシロップ煮用の鍋。そこに300cccの水と200gの砂糖を入れ、煮立ててシロップを作ります。

もうひとつの鍋はトマトの皮むき用として、水をいれ。沸騰させ、トマトの皮を湯むきする鍋として使ひます。

20160902

三つ目の鍋は、冷水をいれ、茹でだトマトを急冷して、皮を縮みあがらせる鍋として使用します。さうすると指でつまむだけで簡単に皮は取り除けます。

脱 線
かうして文章が変換されるのを眺めてゐると、つい「沸騰」といふ文字に眼が止まってしまひます。なぜ沸騰の沸は「弗」になり、なぜ「ム」にならないのか、とつまらないことに眼が止まつてしまひます。敗戦直後の国語改革と称してなされた結果がこれです。いかにも中途半端です。

冷たい酸味と甘さ
さて本題のトマトのシロップ煮に話題を戻しますが、あとは湯むきしたトマトをシロップ煮の鍋に移し、煮たてるだけ、これで終はりです。

あとは一晩放置し、翌日保管用の器に移し、冷蔵庫に入れて冷たくすれば、残暑の日中、外出先から帰つたときなど、喉の乾きやからだの疲れを癒すために、舌鼓を打つ、ちよつとした娯しみになります。




| comments(0) | trackbacks(0) | 07:22 | category: 覚え書 |
# 言葉が色づけされ意味が変はるとき mercredi 31 aout 2016
世界の警察アメリカ
アメリカが世界の警察をやめるさうだ。それに対して、日本では喜ぶのではなく不安の声がきこえてくるやうだ。ほんとうなら喜ぶべき事柄だと思ふのだが、この自分のなかにも風評にあるやうな不安があるのも事実である。これまで他力本願が当たり前だとして生きてきたからだらう。

アメリカが世界の警察であることがそれほどいいことなのだらうか。アメリカが世界の警察であつたことの実態はなんだつたのか、アメリカが世界の警察であつたことの意味はなんだつたのか、再考してみる必要があるだらう。歴史家に限らず多くの人がはこの問題を考へる必要があるだらう。

いつ世界の国々がアメリカを世界の警察になるやうに承認したのだらうか。第二次世界大戦後に、アメリカが自らさう自称して、世界の国々に認めさせてきたに過ぎない、それが実態だらう。

しかし、なぜさう自称したのか。考へるに、世界に植民地が蔓延した時代のイギリスの座が欲しかつたからだらう。かつて資源国を植民地化して、資源を仕入れ、自国で生産した工業製品を輸出して世界を支配下に置いてきたイギリスにとつて代はりたかつたのだらう。

20160831
   < わたしは警察官だ >

非干渉主義から孤立主義へ
アメリカは、第二次大戦以前は諸外国に関して、干渉しない非干渉主義を国是としてゐた。現実的には、国の成立過程にあり、干渉するだけのものがなかつたのが実情だらう。しかし政治状況に変化が生じるとアメリカでは、非干渉主義を孤立主義として非難するやうになつた。立ち位置を変へるために言葉が色づけされた好例である。

いまは歴史修正主義の言葉の意味が変へられてゐる。歴史は、本來新資料の發見とともに、新しい見方、新しい意味が見出されてきて当然である。したがつて、ときによつては正反対の歴史になる場合もある。これが歴史の姿だらう。

しかしいまや歴史修正主義者は悪者である。主義主張が入り込むことによつて、本來の意味を無視し、あげくに別の意味を付与してしまつたのである。もちろん新資料は精査されなければいけない。さうでないと歴史修正主義者を悪しざまにいふ都合主義者と同類になつてしまふ。

20160831
   < わたしはアメリカだ >

盲信の落とし穴
言葉は生き物で、時代とともに、時代のなかで、変遷してゆくものだが、政治色をもつて変へられて行く場合もある。変へられると不都合な人たちがゐるからである。時として、どういふ人でも、集団化すると集団の一員に成り下がり、黒を白と言つて平然としてゐるものである。

アメリカの南北戦争は、他国の介入を防ぐために奴隷解放を口実にしたが、いまや口実とした理由がその戦争の理由になつてゐる。自分の名誉のためなら人は戦ふだらうが、他人の名誉のために命を投げ出す人はゐないだらう。かつて決闘が許されてゐた時代があつた。名誉のための決闘である。名誉をもつたのは特権階級の人たちだけだつた。

南北戦争はあくまでも白人対白人の戦争であつた。これは覚えておかなければならない事実だらう。戦争に参加しても黒人が白人を殺すことはあつてはならないことであつた過去の事実がある。

人間の歴史を語るとき、これらの事実を隠すほうが、よほど歴史修正主義者の悪者である。





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# 異変の起きない普段だからこそ lundi 29 aout 2016
惜しむ。なぜ、どうして惜しむのか。

なぜなら人は失つてからでしか、その大切さ、その重大さ、その貴重さを知り得ないからである。

健康な人に、健康に留意しなさい、と言つても、人は一向に留意しない。なぜなら、今現在健康でなにも不都合が生じないからである。

ただし一旦健康を損なふと、人は途端に健康オタクになる。時既に遅し、手遅れであるにもかかはらずである。

しかし、・・・。

20160829
   < ここに健康祈願で通ふ人もゐる >

さう、しかし、なのである。実際健康を失なつてからでは手遅れなのだ。

薬や医者は気休めに過ぎない。健康はあくまでも個人、その人のあり方の問題である。

健康は肉体だけの問題ではない。健康は精神の問題でもある

健康が恢復したかに見えて、人は、簡単に安心する。

だが厳密には、それは似非健康でしかない。

だから、健康なときにこそ、肉体も精神も健康であることに留意しなければならない。

しかし、かういつたからとしても、現実は、戯言でしかないのが実際である。






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