蛮茶菴

フォト・エッセイ ごまめの歯ぎしり
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# 『日本の長い戦後』を読みながらー8 jeudi 30 novembre 2017
前回
前回は報道批判とそれ信じてを鵜呑みにする怖さを書いた。日本の「いま」だけでなく、いつの世もさうだが、軽信は禁物。軽信は考へる放棄につながりかねない。人間が、考へることをやめたら、生物学的に人間に分類されるだけになつてしまふ。

更新されない歴史?
人間であるが人間でない人たちーー狂信者、どこまでも原理を信奉する人たちが人間の歴史をつくる。人間がいふ歴史なんて、飽きず、倦まず、果てることなく執拗に、繰り返し繰り返し熱心に、嘘に嘘を塗り重ねた戯言の羅列したもの、これが現在歴史といはれるものかもしれない。

歴史は、政治資料等の公開解禁とともに、書き換へられていくものである。しかし現在は、現行の歴史観に異を唱へると、ある種の人たちから、歴史修正主義者といふ烙印が押される。この偏狭な非難はなにを意味するのか。

20171130
   < どこまでも、高みを目指して >

無意味な言葉
『プラスチック・ワード』(藤原書店刊)といふ本がある。この本の帯には、プラスチック・ワードを「『発展』『コミュニケーション』『近代化』『情報』など、ブロックのように自由に組み合わせて、一見意味ありげな文を製造できる空虚なことば」と説明してゐる。

かつて日本人は、智慧として、一見意味ありげなきれいごとをいふ人や立て板に水を流すやうに流暢に喋る人や、雄弁に喋る人を「食はせ者」とみなして信用してゐなかつた。軽蔑し、どこか用心して接してゐた。「プラスチック・ワード」といふことばが出現する以前に、さういふものがあると理解したゐた。

朝日新聞が、戦後報道方針を転換した時の理由、御託がまさにそれである。これを読めばわかるやうに、つまり朝日新聞はこの程度の新聞社なのである。しかも嗤はれるのを承知してのことなのだらうが、御丁寧にも、わざわざ、それを告げてゐるのである。

20171130
   < 太陽を浴びて、葉表から見て >

朝日新聞の「御託」はつぎの通りである。

ーーー『朝日新聞』は、平和をもって戦争の罪を償うのだ、それこそが道徳的自己認識を修復し、世界の敬意を勝ち得るための道であると述べてきた。この反戦の語りの根底には、自社が戦争中に翼賛報道に協力し、読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省がある。自らの戦争責任を認識しているがために、国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難の調子は特に厳しいーーー

これは以前書いた通り、単なる看板のすげ替へで、読者を戦争へと導いた翼賛報道の反省でも戦争責任の認識でもなんでもない。

口先だけの反省
高島俊男のこのシリーズの最終巻になるといふ『お言葉ですが 別巻❼』を読んでゐたら、戦前から戦後、映画批評で名を馳せたといふ朝日新聞の津村秀夫のことを書いた文章ーー「戦争中の映画」p.87ーーに出会した。そこを読むと朝日新聞社の「読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省」も「戦争責任の認識」といふものも体のよい口からの出任せの嘘八百だといふことが、わかりすぎるほど、よくわかる。

なによりも「この反戦の語り」がきれいごとの意味のないプラスチック・ワードの羅列に過ぎないのがよくわかる。それは、並べられたことばの具体性を尋ねれば、意味不明の曖昧性が際だつばかりで、どこにも具体的な意味内容はみえてこないことからわかる。

20171130
   < 太陽を浴びて、葉裏から見て >

敢へてひとつだけ例を挙げるとするならば「道徳的自己認識」とは一体なにを意味するのか。哲学にかういふことばが存在するのか、日本語は造語が簡単であるからといつて、疑つた究極に自己を発見したデカルトを馬鹿にするやうな意味のない言葉を作るのは愚かである。

悲惨以上に哀れ!
また日本の報道全般にいへることだが、ジャーナリスムとしての報道の範囲を超へて、つまり事実報道の範囲を超へて、公平中立をうたひながら、おこがましくも、権限もないのに、意図的に、終始一貫して、読者をある一方向に導かうとする報道姿勢である。ここには読者の見地や考へを広げるための公平中立な報道などどこにもない。

それは今現在も変はりないし、いや逆に、報道姿勢は以前にも増して、「報道しない自由」などと愚かな口実を真顔で言い募つて、偏向的、断定的、命令的な独りよがりな報道に終始してゐる。自らの首を絞め、自らを辱めてゐることさへも気づかない、現実を直視できない、哀れな愚かさだけが目立つ日本の報道である。

20171130
   < 見極めた果ての奥に出てくるものは? >






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# 『日本の長い戦後』を読みながらー7 dimanche 19 novembre 2017
前回、前々回
前回は、ジャーナリスムの本質を全く持合はせてゐない、日本のジャーナリスム企業と、これまたジャーナリズム精神を全く持合はせてゐない日本のジャーナリストたち、これらが牛耳つて、堕落し、落ちるところまで落ちて、手の施しやうのなくなつてゐる日本のジャーナリスムに、哀れみを覚え、久しく忘れてゐた「寸鉄」を更新した。

前々回は多くの平均的な日本人のだれもが共有してゐない「戦争の記憶」について述べた。

これは学術書ではない
ところで現在の平均的日本人が記憶してゐない「戦争の記憶」は、だれによつて記憶されてゐるのか。またさうでありながら、だれによつて問題として語られるのか、といふ側面も考察する必要がある。しかしこの本では、その面への言及はない。そもそも変形B6版の小型二百頁の本から、さういふことは期待できないであらう。

読んでゐて気がつくと、この本は、学術書として研究がなされてゐないのが見えてくる。ではこの本はといへば、これまで日本で報道されてきた事象を整理整頓したといふのがこの本である。整理整頓しただけで、考察が欠落してゐるのだから、この本には学術書としての発見は期待できない。

たとへば、目の前に考察の対象が出現しながら、それに着目しないで済ましてしまふ。なぜさうしてしまふのか不思議でならない。学者として劣るのか。海外にゐるのだから、外からの目で、日本の事象を、第三者的に、距離を置いて、客観的に、観察できるのではないかと考へるのだが、さういふ期待は裏切られる。

考察に堪へない理窟
「敗北感の共有とその位置づけ」の第三章の日本の報道姿勢に言及した「新聞社説に見る戦争責任と被害の言説」に取上げられた報道姿勢、ここを読んでも、考へるべき重要な事柄が、欠落してゐるのがわかる。

日本の報道姿勢は朝日新聞の以下の言説に代表され、貫通され、死守されてゐる。

ーーー『朝日新聞』は、平和をもって戦争の罪を償うのだ、それこそが道徳的自己認識を修復し、世界の敬意を勝ち得るための道であると述べてきた。この反戦の語りの根底には、自社が戦争中に翼賛報道に協力し、読者を間違った方向へ導いた過去に対する反省がある。自らの戦争責任を認識しているがために、国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難の調子は特に厳しいーーー

一読すると理想的言説のやうに思はれる。しかし言葉を一つひとつを吟味、考究するとどうなるのか。いや、それ以前にまずこの言説を、大局的立場にたつて、納得できる考へ方なのかどうか、と考察する必要に迫られるのではないか。

20171119
   < 悪徳商法・・虚僞を報道し、あげく受信料金まで巻き上げる >

5W1Hの「なぜ」と「どのやうにして」さうなつてしまつたかを考察せず、安直に、対極に立場を移すのは、つまり翼賛報道から反権力へと極論に走り過ぎる例ではないか。観察すれば、看板をすげ替へただけで、実は、この言説は表裏同一、ではないか、といふ疑念が生まれても変ではない。もし同一なら、戦後七十年以上を経て、おなじ過ちを犯し続けてゐる現実が浮上してくる。短絡的な反省が、反省にもなつてゐない現実が見える。

闊歩する嘘ニュース
昨今アメリカ大統領が言ひはじめたフィエイクニュースがさまざまに言はれてゐる。日本でも、YouTube など見ればわかるやうに、同様のニュースが問題にされてゐる。新聞報道を信じない世代は、短文投稿サイトや YouTubu などの動画の手段を通じて、自らの疑問を発信してゐる現状が見えてくる。

しかし、それでも既存の報道を信じる人たちの層が厚いやうで、とくに団塊の世代の層が、ニュースの現実、真実を知らないまま、報道される偏向、フェイクニュースを信じてゐる。さういふ過去の自らの脳に組込まれた思考回路を更新をできない人々に向けて、都合よく欺き続けるために「報道しない自由」といふ詭弁を弄んで、事実、真実を意図的に隠蔽してゐるジャーナリスム世界の現実がある。

弱者は虫けら
既存の大手報道機関は、事実を疎かにして、故意に意図的に現実を読み違へ、このところの衆議院議員の足立議員の捏造追究には返答もせず、ただ言質を挙げつらひ、相手を攻撃するだけの朝日新聞の報道姿勢に殉じてゐるやうに、偏向報道の現状に準じてゐる。

良心、見識、慧眼のいづれをも持合はせてゐない、かつてのオウム真理教の世界を思ひ出させるーー学歴だけは高いが、操り人形の如何ともしがたかつた世界ーージャーナリスム世界を見せつけてゐるのが日本の現在である。

時代背景の無視
学術書なら、日本の現実も知る必要があるし、その現実を考察する必要も生じて当然である。加害責任の記事が、一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、多くなつた、と指摘してしてをきながら、「なぜ」さうなつたのかは追究、究明、言及しない。学術書なら、この「なぜ」を明確にしなければ意味がない。

実際とは異なる色のついた根拠のない報道を寄せ集めてみても、そこから、意味も生まれなければ、真実も見えてこない。その最たるものは朝日新聞の従軍慰安婦・吉田調書誤報陳謝会見であるが、さういふ報道から見えてくるのはジャーナリスムの傲慢不遜さとその世界に従事する人たちの異様さ、歪(ひづ)み、歪(ゆが)みの世界がある。

それはどこから来るのか。いはづもがなの闇雲な「国家に対する責任追及、また戦争指導者や官僚に対する非難」の報道姿勢からである。反省の独りよがりで、またしても国民を欺いてゐる「翼賛報道」、つまり「フェイクニュース」の現実が出現してゐる昨今である。




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# 業界用語辞典 mercredi 7 novembre 2017
Aphorisme 159
いつの間にか、業界用語辞典では、「報道しない自由」が、「偏向報道」を意味するやうになつてしまつた。


20171107
   < 唐辛子、もし甘かつたら、別の名前を必要とする >


日本の報道関係者、日本の有識者は、同胞に対して、偏向報道を「報道しない自由」だと言ひ募る。

でも、世界の常識(あへて良識とはいはない)人たちからは、驚かれ、呆れかへられ、嘲笑(わら)はれてゐる。











| comments(0) | trackbacks(0) | 20:05 | category: 寸  鉄 |
# 『日本の長い戦後』を読みながらー6 samedi 4 novembre 2017
前回
前回は、まだ「『日本の長い戦後』を読みながら」のシリーズは終はつてゐないのだが、とかく言はれてゐる「忖度」について、以前から気になつてゐた言葉遣ひの誤りにつて、ひと言いつたので脱線した。不確かな知識に基づいた議論は、所詮時間の浪費である。さらにもうひと記事、なんでもない秋の景色が目に飛び込んできて、秋を実感したので、「秋の朝光のなかで」撮つた写真も載せてみた。ところで、このシリーズの前回は、中国の文化大革命が文化的トラウマになつてゐないことに疑問を呈した。

知らない異常さ
さて本題。サザン・オールスターズの桑田佳祐が歌つてゐるやうに、日本では、学校で、授業時間がないことを理由にして、近現代史を教へない。だから大抵の人は自国の近現代の出来事を知らない。

本来なら、自国の近現代ーーー「われわれはどこから来たのか」ーーーを知ることは、「よく生きる」ためには、必須な知識である。知識、事実、情報に基づかない思考は絵空事でしかない。さうならないために、本来、国が、教育に携はる人々が、先に生きた人々が、それぞれの責任で、近現代の出来事をつぎの世代に伝へておくべきである。しかし、さうなつてゐないのが日本である。

20171104
   < 田圃さへも来年の実りのために準備の手が入る >

だからアメリカと日本が戦争したのを知らない若い人もゐる。それほど日本人は、自分の国の近現代について知らないし、また多くは知ろうと努めないのである。さういふ状態で「いま」を考へ、論じること自体が滑稽である。

三つの記憶?
『日本の長い戦後』で、戦争に関はる三つの記憶ーーー戦死した英雄を語る「美しい国」の記憶、被害者を語る「悲劇の国」の記憶、加害者を語る「やましい国」の記憶ーーーが語られる。しかし、これら三つの記憶は、日本人全体で共有されてゐる記憶なのか。少なくとも、「『やましい国』の記憶」は戦後生まれの人々には共有されてゐるかもしれない。だが他の二つの記憶はどうなのだらう。

この本で、三つの記憶といふ戦争の見方の観点を持ち出して、なにを語りたいのか予測がつく。だけど、皮肉にも、これら三つの記憶を、平均的な日本人がどれだけ知つてゐるのか。かりに自分自身に問ひかけても、不確かに「『やましい国』の記憶」が、ボンヤリと、あるくらいで、残り二つの記憶は皆無である。
『ガラスの宮殿』『朗読者』『サラの鍵』『憎むのでもなく、許すのでもなく』『浮世の画家』など、どの順番でこれらの作品を読んだか、忘れてしまつたが、『ガラスの宮殿』を読み終へた時点で、第二次世界大戦のことを知ろうと意識した。つぎに読んだのは『中村屋のボース』だつた。

無知の証左
戦争の名称も最初は第二次世界大戦も太平洋戦争も大東亜戦争もなにも区別できなかつた。それほど日本の近現代に無知だつたのである。



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# 秋の朝光のなかで vendredi 3 novembre 2017
けさの題名は辻邦生( 1925 - 1999 )の作品『秋の朝光のなかで』と同名になつてしまつたが、さう想はせる朝だつた。

20171103

昨夜済ませてをいた洗濯物を干しにヴェランダに出たら、道路が濡れてゐるのに気がついた。天気予報では深夜から明け方まで小雨予報になつてゐたのを思ひ出した。竿に洗濯物を干してゐたら、空の雲が目に入つた。

20171103

ゴミを捨てて帰る途中、知人の家の露を輝かせてゐる花が目に止まつた。

20171103

20171103

やがて太陽が高くなり、草花に届き、露草が光を帯びて輝きだした。

20171103

20171103

影も生まれ、花に変化をもたらした。まさに『秋の朝光のなかで』である。朝の、つい見逃してしまふ、数分の出来事である。

20171103








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# 権力を乱用する報道 lundi 30 octobre 2017
権力乱用
既存の報道機関は、影響力からみても解るやうに、権力をもつてゐる。周知の白を黒といつて、それを通用させてゐる。これが権力でなくてなんだらう。

報道しない自由
この「報道しない自由」の曲解も甚だしい。かういふ記事を書く人が、わが子から「『報道しない自由』つてなあに?」ときかれたら、なんと応へるのだらう。

まさか、わが子に、片手落ちの報道をしてもいいのだ、といふのだらうか。それとも正義のために、はたまたこれからの将来のために、かういふ記事をかいてゐるのだといふのだらうか。

忖度の責任
ひとしきり忖度といふ言葉が報道を賑はした。いひだしのはじまりが誤用だつたのだが、忖度にまつはる報道をみてゐて、不思議で、不思議で仕方なかつた。

20171030
   < 木をも覆ふ雑草の生命力:比喩としてこれをどう考へるか >

忖度とは「他人の気持を推し量る」こと。だからどうしても勘違ひや間違ひが生じる。この勘違ひや間違ひの責任は、忖度した人である。

責任の所在
しかし奇妙なことに、「忖度された人」の責任が問はれる時代、前代未聞の時代が誕生したやうである。では「忖度された人」はどう責任を取ればいいのか。

なにも特定な人を弁護するために、これを書いてゐるのではない。あくまでも一般論として書いてゐるので、誤解のないやうに。

人間、わかるためには、落ちるところまで落ちないと、わからないのかも知れない。



| comments(0) | trackbacks(0) | 06:52 | category: ひと言 |
# 『日本の長い戦後』を読みながらー5 lundi 23 octobre 2017
前回は
前回は、中国の文化大革命が文化的トラウマをもたらさなかつたといふ著者の主張について考へた。

恣意的?
著者は文化大革命後に起きた天安門事件には触れてゐない。が、しかし、もし触れるとしたら、天安門事件も文化的トラウマにならないだらう。さうとしか推測されない。

天安門事件は、すでに事件が起きる前から、各国の大使館の人々には、大惨事をもたらすものになると考へられてゐた。それは『静かなる旅人』を読めば解る。そこには、数時間後に四川に差向ける飛行機に搭乗しなければ、(中国の)フランス大使館はあなたの(この著者の)生命の保証はできない、といつてきてゐる。

天安門事件は、民主主義を求める天安門広場に集まつた多くの学生たちの反乱を怖れ、当時の首席小平が、共産党政権を守るため、軍隊、戦車まで出して、将来ある自国民を、多数の死傷者まで出して、軍力で鎮圧した事件である。しかし、この悲惨な天安門事件も、中国では、文化的トラウマとはならないのだらう。

20171023
   < 翻訳本にはない大革命で斬落とされた篆刻の師の手首の写真 >

権力のチカラ
この事件が語られないのは、中国の国家権力が、完璧なまでに、語らせないからである。この事件に限らず、中国には膨大な人間が死んだ悲惨な事件が数へ切れないほどある。さうでありながら、それらは、国家権力の監視によつて、その問題に触れることは許されない。

是非は別問題にして、もしすべての国の国家権力が、中国に右へ倣へして、悲惨な出来事や経験を語り表現することを許さなかつたとしたら、日本の文化的トラウマも存在しなくなるだらう。さう考へると、日本の文化的トラウマは、作られたものだと見做せる、といつても問題はないだらう。





| comments(0) | trackbacks(0) | 19:12 | category: ひと言 |
# 『日本の長い戦後』を読みながらー4 mardi 10 octobre 2017
前回は
前回は専門用語流用の弊害を書いた。変はらないと思はれてゐる言葉も、元来言葉は流動的で、常に変化してゐる。近年の特徴は、より詳細な表現を求めだが、専門用語が垣根を越へて侵食してくる。的確に、イメージ豊かに、伝達できると思はれた専門用語が、異分野では、当然だが、本来の意味とは微妙に意味をずらして使用されてゐる。

カタカナ語
カタカナ語は、ファジーに、曖昧模糊として、広いスタライクゾーンで、さうでありながら同時に日本固有な意味合ひをもつて、便利に、簡便に、安易に使用される。だから時として、日本人と外国人の間で、誤解が生じ、意思疎通を困難に、笑ひ話のやうな珍事も起きる。

文化的トラウマといはれると、日本語独特の特徴で、なんとなく分かつた気になる。しかし、具体的になにを言つてゐるのかわからない。トラウマの日本語訳は「心的外傷」、カタカナ語よりも日本語訳の方が、漢字の表意効力が発揮され、イメージ豊かに理解できる。トラウマは身体上の外傷(きず)ではなく、心・精神の内傷(きず)である、とわかる。

では文化的な心・精神の内傷(きず)とはなにか、と目次をみると、「記憶」が取り上げられてゐる。

20171010
   < 写真も意図に基づいて製作される。トラウマも同様か >

人工か自然か
さうかといつて、非日常的な異様な出来事が、必ずしも文化的トラウマをもたらすものではないと、中国の文化大革命を例に挙げて、述べてゐる。さう述べながら、ここで「なぜ中国の文化大革命は文化的トラウマをもたらさなかつたか」を考察してゐない。

文化的トラウマとなる出来事もあれば、文化的トラウマにならない出来事があると述べるのなら、この差異は考察されてしかるべきであらう。特に学術書、研究書とするのであれば、なおさら詳細に、切り込んで、追跡調査し、問題点を解明する必要がある。わざわざ例をあげながら、その例を素通りして、問題としないのは、学術書、研究書としては期待が削がれる。

中国の四川省に留学して学んだフランスの芸術家ファビエンヌ・ヴェルディエ( 1962 - )は、その著『静かなる旅人』で、文化大革命後の日々を書き記してゐる。

文化大革命で否定された人々や伝統否定破壊運動を担つた人々、それぞれの間に、それぞれのトラウマがあつた様子が書かれてゐる。個々の人々は、トラウマに蝕まれてゐた。さうでありながら、しかしなぜ、中国では、文化大革命は社会問題になり、文化的トラウマにならなかつたのか。

分れ目
毛沢東( 1893 - 1976 )が始めた伝統否定の文化大革命、現在の中国の政治体制では、過去の文化大革命を、日本とおなじやうに毎年報道特集として取り上げ、ドキュメンタリーを製作し中国全土に流布し、その問題点を論じることは許されないのは、だれの目にも明白である。

ある国では出来事が文化的トラウマになり、別のある国では文化的トラウマにならない。以上のことから解るやうに、文化的トラウマはある恣意的な影響力で成立する側面があるのがわかる。この恣意的な影響力の正体、それを明らかにしないかぎり、問題の本質の解明には至らない、といふのがわかる。

さういふ観点に立つと、『日本の長い戦後』で問題になる「過去」として描かれた事柄をそのまま信じていいのか、といふ問題が浮上してくる。






| comments(0) | trackbacks(0) | 12:22 | category: ひと言 |
# 『日本の長い戦後』を読みながらー3 jeudi 28 septembre 2017
前 回
前回は、「従軍慰安婦」報道は、虚僞であると朝日新聞自らが謝罪会見したにもかかはらず、その後も「従軍慰安婦」を著書で使用する著者と翻訳者の問題点を指摘した。

虚僞とされたのだから、根底から用語使用の見直しが迫られるはずだが、それがなされてゐない。著者の研究態度に疑問を呈した。

キーワードの落し穴
トラウマ(日本語訳では心的外傷、この訳語はこの病名を過不足なく言ひ表してゐる)とは、本来精神医学用語である。その精神医学用語が『日本の長い戦後』のキーワードになつてゐる。
しかし、医学用語で歴史が解読できるのか疑問である。用語の流用には危険が伴なふ。用語の流用はあくまでも流用であつて、用語の立場に立つたご都合主義の解読に脱しかない危険性がある、と用心しておいたほうがよい。

事実、世論の統計の数字が、色付けのない公平、中立、客観的なものと主張され、多用されるが、これも虚僞で、逆に公平、中立、客観性を装つた偏つたものである。

20170928
   < ゆく川の流れは絶えずして、しかも >

客観的といふ嘘
もし数字が客観性の権化なら、各新聞社の世論調査の集計数字に、なぜ逆転するやうな差異が生じるのか。答へは簡単である。設問文に、すでに色付けがなされ、ある方向に誘導する文言が忍ばせてあるからである。

それだけでなく調査対象者も問題になつてくる。

電話調査ひとつを例にとつても、家にゐて目の前で固定電話の着信音がしてゐても、無視する若い世代、反応しても電話に表示される番号を見て拒否する人、さうではなく無条件に、電話がなつたから出なくてはいけないと盲目的に応対する世代、さういふ態度からもわかるやうに、結果的には、偏つた集計数値が誕生する。

さう知りつつ、報道は数字は公平、中立であると主張する。

引用や要約が論旨に合はせて改竄されるやうに、数字も、上で見たやうに、同様の宿命をもつ。専門用語が異なる分野に用ゐられると、語本来の様相を変へ、複雑な問題を誘発してゐるのは、すでに指摘されてゐる。これが客観的、無色透明といはれる統計数字の正体である。



| comments(0) | trackbacks(0) | 19:04 | category: ひと言 |
# 『日本の長い戦後』を読みながらー2 dimanche 24 septembre 2017
従軍慰安婦
おそらくこの本は、個人的な偶感などではなく、学術書として、準備して書かれたものだと推察できる。だが、それにしては、得心のいかない言葉が、断りもなく、無神経に、使用されてゐる。

二〇一四年八月五日、紙面上で従軍慰安婦の虚僞訂正記事を発表し、同年九月二七日にも、テレビで多くの人に知らせるために、会見の場を設け、朝日新聞社社長や取締役編集担当者らが慰安婦問題で虚僞を報道したと謝罪した。

二〇一四年九月二七日「しんぶん赤旗」でも、八月五日の朝日新聞の記事を検証し、それに準じて信憑性がなかつたとして、過去三回( 1992 - 1993 )にわたつて掲載した記事を取消し、謝罪するといふ記事を掲載した。

20170924
   < 焦点があつてゐないのは愛嬌として >

つまり三流なのか
しかし、『日本の長い戦後』では、さういふ状況であるにもかかはらず「従軍慰安婦」といふ単語が用ゐられてゐる。著者は日本人で、現在も生存してゐるやうだ。さらに、この本を書くにあたり日本で、高校などで聴取り調査もしてゐるやうだ。

この本の翻訳者も、朝日新聞の謝罪会見は見知つてるゐると想像できる。仕事に関はる情報なのだから当然と見做しても問題ないだらう。さういふ事実を知りながら、学術書といふものを翻訳するにあたり、虚僞として取消し訂正された「従軍慰安婦」を訳語に使用する。

この訳語について、著者と訳者で、聯絡をとり問題にしなかつたのだらうか。この本が発行されたのは二〇一七年七月十八日。謝罪会見から三年が經過してゐる。だのになぜ「従軍慰安婦」なる用語がこの本で使用されてゐるのか。

学者、翻訳者として、なにも感じないのだらうか。





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