
一箪食一瓢飲在陋巷人不堪其憂回也不改其楽

夕陽無限好祗是近黄昏

一箪食一瓢飲在陋巷人不堪其憂回也不改其楽

夕陽無限好祗是近黄昏
かういふラベルを見せつけられてしまふと、どれだけビールがキンキンに冷えてゐて、乾いた喉を潤してくれても、興ざめです。飲む氣が一氣に消失してしまひます。

このビール瓶を出した店の人、仮に自分が反対の客の立場なら、どう感じるのでせう。ひよつとしたら、別になにも感じないのかもしれません。指摘され、さういはれても、問題にしないのかもしれません。事実見てのとおり、実際にさういふところに氣が届いてゐないのですから、問題にしない確率は相当高いでせう。
ちなみにこのビールを出した人の年齢は、十代や二十代の女性ではありません、どう見ても五十代です。人も五十年生きてゐれば、それ相応の経験はしてゐるはずです。だけど実態はかうです。サーヴィスとはなにかを全くしらない様子が自ずと告げられて餘りあります。なんともいへない氣持ちになつてしまひました。
うへのサーヴィスの話とは無関係ですが、週に二度定期的にわが家を訪れる人たちがゐました。その人たちが訪れるやうになつてから、これまで十数年もなにもなかつた玄関先の開閉扉の留め金が馬鹿になり役立たなくなつてしまひました。

< 正常に扉が開くつまみの状態 >
わが家の玄関先の開閉扉は、内側からつまみを操作して通りから開けられないやうになる単純で簡単な仕組みの扉です。これまではそれで充分用を足してゐたのですが、それがこの人たちが訪れるやうになつてから、問答無用で、力任せに取つ手を回すので、鑄物のつまみの止め部分が壊れて、意味をなさなくなつてしまひました。
力加減といふものがわからないのでせうか。これまで訪問した人は取つ手をまはして開けやうとしますが、ハンドルが止まるそこで、それ以上は回さうとはしませんでした。ところが介護を仕事とするこの女性たちは力任せにまはすのです。
よくいへばパワフルですが、それでは済まされません。加減といふものを知らない無神経さが際立ちます。これだつて、当たり前に考へれば、起こり得ない破損です。ちなみにこの人たちの年齢は四十代。仕事ではどんな介護をしてゐるのだらうか、さう思つてしまひます。

< 本來ならつまみがこの状態では扉は開かない >
二つの出來事には関係がありませんが、出來事の背後には関係したなにかがあるのではないでせうか。人間の劣化は機械のやうに目に見えてわかりません。しかし、人間が劣化するとかういふ形で現れるのではないでせうか。
それにしてもといふ氣持ちになつてしまひます。人間はどんな破廉恥なことでも、やつてのける動物だと、最近思ふこと頻りです。他人事ではありません。血のつながつた自分の身近でもさういふ種類の出來事が起つてゐます。つい先日も起きたばかりです。
この政治屋、口を開くと「政治生命」、「政治生命」といふが、一大決心の割には「政治生命」の具体像も、増税の具体像も、社会保障の具体像も一向に見えて來ない。
医者にインフォームドコンセントの責任があるやうに、政治屋にも政策説明責任があるはずだ。その責任を「政治生命を賭して」の一点張りでは説明したとはいへない。國民はそんなチッポケな生命など慾しくはない。あげます、といつても要らない、といはれてゐるのが実態である。

< 破綻寸前の政治屋の世界 >
また尖閣諸島で起きた中國漁船事件では、「粛々と」、といつた政治屋もゐた。献金問題で吊るしあげをくつた当初は、亀よろしく首をすくめてゐたが、これもマタゾロ表に出て來て厚顔にも闊歩してゐる。
時系列においてこの政治屋の發言を見てゐると、「粛々」とは、どうも、なにもせず、ただ相手の意のままになるといふことらしい。
どこを探しても、この國では、政治家はゐないやうである。ゐるのはもどきの政治屋ばかり。政治屋の首がすげ変はつただけで、中身はなにも変はつてゐない。いや、もつと酷いかもしれない。

もうだれも見ないが、わが家にもブルーナーの絵本がいまもある。厚紙をもつと強くしたページつくりで、赤ん坊がどんな扱ひをしても大丈夫なやうな、いやいや大の大人が破らうとしてもびくともしないやうな作りの本が。
かつて東京都板橋区区立美術館でまとまつたディック・ブルーナー展があつて出かけた覚えがある。カタログを購入したときのビニール袋がまだ保管してあつた。

玄関を閉めて朝の運動に出かけようとしたら、まん丸い月が目の前にあつた。寝るとき寝室の窓の外を煌煌と照らしてゐた月が沈むところで、大きく見えた。

この時期だと五時前にすつかり明るくなる。なぜかわからないが、けふはいつも通る公園の滑り台を見て、ディック・ブルーナーを思ひ出した。
この滑り台、ディック・ブルーナーカラーである。ここであそぶ子供たちの脳裏にかういふ色彩が自ずと蓄積されてゆき、自然に子供たちの感性作りの一助になるのだらう。

ディック・ブルーナーの名前などなにも知らなくても、かうした環境がブルーナーの世界を教へてゐる。

LPのレコードジャケットがかうして並んでゐる。かういふものが好きな人には堪らないのだらう、さう思ひながら、通り過ぎた。通り過ぎてから、戻つてきて、この冩真を撮つた。なかで珈琲が飲めるやうだが、出される珈琲を想像すると、そこまでする氣がおきない。

隣のこちらは、珈琲専門店のやうだが、外から店舗を眺めて終り。すこし歩くと小宮山書店でガレージセールをしてゐた。人が買ふ本を眺めて、裏口から小宮山書店に入る。一階正面入口右手に入れ墨をした男たちの背中を冩した作品があつた。値段は十二万円、値段設定の根拠はと考へながら、正面入口から外へ出た。


先日も本棚を眺めてゐて『日本の中世』のタイトルが目に留まりました。この『日本の中世』、本箱には五冊あります。第一巻は「中世のかたち」となつてゐます。本を眺めながら、「中世、中世といふけど」といふ疑念が沸きあがつてきました。その疑念の背後にはジャック・ル・ゴフの「中世はヨーロッパだけのものだ」といふことばがあります。

さういはれれば、それぞれの歴史が共通の時間を共有してゐるわけではありません。かういふ名称を使用する学者は便宜的といふかもしれませんが、さういふことばが口をついて出ること自体が、すでに眉唾的、学問的に劣化してゐるのではないかと思へて來るやうになります。

一冊の本に感動し、その本の世界を絶対視するものいいのですが、限界を知る必要もあります。よしとして、往々に、ひとつの世界に凝り固まりがちですが、さうなると弊害が起きます。勉強の最終目的は均衡を得ることなのだと考へます。

全く異なる世界を書いた本を並べてみるのも、考へる起爆装置になります。紙でできた従來の本だとかういふ遊びができます。背表紙を眺めてゐるだけで、あれこれおもしろい考へが浮かんできます。
紙の本は汚れます。なにかの拍子に、不注意でインキの染みをつけてしまつたりもします。何度も読んだ本の手触り、さういふものが個人的な記憶と直結してゐる場合もあります。流行歌が時代を彷彿させるのとおなじです。

電子本でもかういふ効用はあるのでせうか。本箱に収まつた本を眺めながら、そんな取り留めもないことを考へるときがあります。
映画『フラッシュダンス』ですこし老けた踊り子がかういふ場面があります。
「わたしは若いときは給料の全部を衣裳代に充ててゐたの、だけどあるとき衣裳を買はなくなつてしまつたの、なぜだかわからないのだけど」
ときどきこのセリフを思ひ出すために『フラッシュダンス』のDVDを鑑賞します。この映画は、わたしにとつての個人的な名作です。
電子本が普及すれば、当然これまでにない新しいサーヴィスも考案されるのではないでせうか。たとへば、画面の文章を読みすすめると、画面が目の動きを察知して、自動的に文章をスクロールし、頁をめくる手間がなくなる、さういふサーヴィスも実現化するでせう。さうしようと思へば、いま現在でも伎術的には可能でせう。

さうなるとどんなことが起きるでせう。紙の本のページといふ概念が希薄になり、やがて消えてなくなつてしまふのではないでせうか。ページといふ概念が生まれたのは、羊皮紙を束ねて本を作り、そこを出発点として、グーテンベルクの印刷伎術へと發展してゐつたヨーロッパの書籍がもたらしたものと考へてもいいでせう。
アジア、特にそのむかし先進國だつた中國にはページといふ概念が生まれる餘地はさほどなかつたでせう。中國絵画を見てもわかるやうに、背後には折り畳まれ、重ねられた紙ではなく、どこまでも果てしなく続く巻かれた紙の束、巻物といふ發想があるのではないでせうか。

ピカソの抽象画は、西洋のページといふ制約がもたらした苦肉の解決策、さういふ見方も可能でせう。一枚の画布に異次元の世界を投入するには、ああいふ解決方法しかなかつたのかもしれません。さういふ意味ではモネの画布をつなげてゆくといふ發想は、ヨーロッパにおいては、例外的なのかもしれません。オランジュリー美術館のモネの睡蓮の着想は実は絵巻物からといふこともいへます。
モネの観点から対局にあるともいへるピカソは、限られた画布、ある意味ページの闘士といつてもよいかもしれません。一方アジアの絵巻物は、ピカソが苦労してやつたことをいとも簡単に、それだけでなく豊饒にやつてのけてゐます。いへば現実そのものを多面的に豊かに表現してゐます。バルザックが人間喜劇の作品で登場人物に付与した性格のやうに多面的にです。アジアの絵巻をすこし注意深く見れば、そこから当時の人々の生活の様子が沸き立つてきさうです。絵巻物にはさういふ豊かさがあります。

そのむかし大砲といふ武力の前で屈服したアジアは、侵略者に似せることで近代化することを夢見ました。毛沢東が封建的なものを完全にまで排除しようとしたやうに、アジアはアジア的なものを捨て、ヨーロッパ的なものを取入れやうと必至になつた時期が今日っも続いてゐるのではないでせうか。
さういふヨーロッパはアジアのほんとうの偉大さを知りません。遅れた國々だとして、パラダイムシフトをして、自己正当化したときから、ヨーロッパはアジアの文化を否定し続けてきました。象徴的な事件はアヘン戦争です。あのアヘン戦争は、学問的に、いまだ曖昧なまま放置された状態です。

それが思ひがけず、電子本のスクロール機能で、アジアの絵巻物が復権を果たすかもしれないのです。さうなるとピカソの絵も絵巻物の豊饒な世界を前にして、色あせてしまふかもしれません。電子本が主流になり、紙の本が消えてしまふやな事態になるのは寂しいですが、その反面、かういふアジア的な価値の再發見も起こり得るのではないでせうか。ないとは断言できないでせう。

『オレンジと太陽』の映画情報は、その氣になればいくらでも蒐集できるでせうから触れません。劇場に足を運んで、自分の目で見るのが一番でせう。
いつでもさうですが、音楽を聴いたり、観劇したあとなど、すぐなにかをするのが嫌ひです。特に獨りのときは、しばらくはなにもしないで、ボーツとしてゐたい自分がゐます。さういふ空間がいつでもどこでもあるといいのですが、なかなかないのが現実です。だから大抵は、餘韻をひきずつて、なるべく人のゐないその辺をブラブラ歩きます。ガツンとくる衝撃や動揺があればあるほどさうなります。

神保町は意外に人出があり、古書店を素見す人でにぎはつてゐます。自分が本を探してゐると、なにも感じないのですが、ガツンときたあとは、かういふ人混みは疎ましくなります。だから自然に人の少ない路地に足が向かひます。おそらく動揺してゐる自分を鎮めるためにかういふ行動をとるのでせう。氣の置けない同伴者がゐても、自然口数が少なくなります。
衝撃や動揺から自分を立て直したいのですが、思ふやうにゆかなくて、自分を持て餘します。衝撃や動揺が、通常見ないやうにしてゐる自分の底の不安や怒りに強引に觝触し、氣づかせ、 掻乱し、 正視させやうとするのでせう。かういふ映画を見たときは特にさうです。それでなくても普段から自分が生きながら居心地の悪さを感じてゐるのですから。

見るからに、いかにもぞんざいな一枚もあれば

ただ接冩しただけといふのもある。

いつもさうだが、「これだ!」といへない冩真ばかり。


冩真を撮りはじめたときは室内にはだれもゐなかつたのですが、このコーナーの最後の冩真には、いつの間に入つたのかわかりませんが、喫煙室の左隅にバッグがわずかに見えます。やはり利用する人がゐるのですね。かういふところで吸ふ煙草の味はどんなんでせう。さういふ要らぬことを思つてしまいます。

日本はハリボテ文化が通用してしまふといつたのは夏目漱石。この建物、正面から見たら、威風堂々、いかにも立派です。

でも、すこし角度を変へて冩真を撮ると、かうなります。それをどう見るかは、見る人によるでせうが、この冩真を撮つた本人は、グロテスクを撮影する目的で、カメラを向けました。

昨日も出したレストランの冩真。かういふシチュエーションで見るとどうでせう。東京はいつでもどこかを穿りまわしてゐる町です。いつ果てるともなく、潰しては建て、潰しては建ててゐる町です。

日本橋東急百貨店を潰して建てたのがこの日本橋一丁目ビルディング、別名COREDO日本橋といふさうです。COREDOは造語ださうで、話によるとCORE(核、中心)とEDO(江戸)を組合せたやうです。
ひよつとするとこの冩真、いかにも日本的な風景を冩したことになるのかもしれません。