癪と癇にさはる
他人の家の郵便受に、断りもなく、当然のごとく、広告の類を、無神経に、突つこんでゆく。郵便受を開けると肝腎の郵便物よりも無造作に突つ込まれたさういふもののほうがいつだつて圧倒的に多い。家の修理をしてゐる最中に、家の売却を求めるチラシを投函してゆく神経を持たない抜け作もゐる。
落語家の古今亭志ん生だつたか、酒の肴を前にして、俺の胃袋はゴミだめじやあねえ、といつたといふ話をきいとことがある。それを真似して、「俺んちの郵便受はゴミだめじやあねえんだよ」と抜け作を前にして言ひたくなる。
なかには、かういふ広告も情報だと叮嚀に読む奇特な人がゐるが、こちらはさうではない。土足で他人の家に上がりこむやうな無神経な行爲がいやなのである。だから、さういふものは見もしないし、そのままゴミ箱に捨てる。それならまだいいのだが、このゴミをまたゴミとして、指定されたゴミの日に指定された場所に出さなければならない。最初からゴミとわかつてゐるもののために、いちいち、労力を割かなければならない。三六五日毎日しなければならない。これがまた癪に障るし癇にもさはる。
ハードで明快な世界
さういふわけで、郵便受に、赤いガムテープの上に黒いマジック・インクで、コントラストを際立たせて、「郵便物以外投函お断り」と書いた。効果はあつて、以後広告類は入らなくなつた。しかし日が経てば、ガムテープの赤い色も脱色され、黒いマジック・インクも同様で、インクがとんで、文字も怪しくなつて來た。読もうと思へば読めなくはないのだが、なにを書いてあるかわからないと白を切られれば、それが通じさうな状態になつて來た。するとすぐ、抜かりなくまた広告の投函がはじまつた。抜け作もかういふところは抜け目がない。
こんどは新たにテープに印刷して、断り文を作つてくれる人がゐた。しかしできたものを見るとどうも肝心なものが抜け落ちてゐる氣がしてならない。作つてくれたのは「郵便物以外の投函はお断わりします。」となつてゐる。これでは断固としたこちらの意志が文面に出ていない。どちらかといへばこちらの苛立ちとは関係なく、いかにも柔和、叮嚀、軟弱に感じられる。これでは投函人は無視するだらう、と思へてくる。

これでは氣が治まらない。だから「します。」の部分を鋏で切落した。さうして、「郵便物以外の投函はお断り」とした。しかし、ひらがながあるので、どうしても軟弱になつてしまふ感がある。「お断り」だけ生かして、ひらがなは削除して元の「郵便物以外投函お断り」のほうがやはりいいやうに思へてくる。いやそれよりも、こちらの意志を、明確に、もつともつと前面に押出して、「断・投函 非郵便物」としたほうが、こちらの意志をさらに正確、的確に表わしてゐる氣になつて來る。
「断・投函」の意味がわからない人は、まずゐないだらう。もちろん「非郵便物」も。さてかうしてこの文字を眺めてゐたら、日本語が、いまでも、中国語のすぐ傍にあるのに氣づかされた。
ソフトで難解な世界
また削除してしまつたひらがなはといへば、「をんなもすなり」といふ紀貫之のあのひと言が思ひ出された。「をんなもすなり」の行き着いた先が、最近どこでも使はれるいやらしさの極みの「させていただく」といふあの表現。本心を晒せば、自分がしたくて、疼いて、その慾の皮でするにもかかはらず、へりくだつて、おとなしくみせながら、実は裏では、どうだ見たかと言はんばかりに、威張りくさつてみせるといふ巧妙難解なアクロバット的言葉づかひ。この起源が「をんなもすなり」のひらがな表現の世界にあるのでは思へてくる。
最近、天國も地獄もレトリックに過ぎないといつたホーキング博士だが、一番わからないのは女性だといつてゐる。その女性が編み出したひらがな。そのことばつかひにはさういふ難解、摩訶不思議、不可解性が潜んでゐるのではと思つてしまふ。本歌取りを筆頭にして、同音で果てしなく聯想させることばあそびなどはその最たるものではないだらうか。
豊かなニュアンス世界を創出し、そこに遊ぶうちはよいが、さうでなくなるといやらしさだけが異様に目についてしまふ。一見温和その実エゴの塊。さういふ慾望むき出しのぎらぎらした目に出会ふこと出会ふこと。













